夢と灯火

身辺雑記, etc. 主に気に入った音楽や漫画についての感想

卒業の雪景色:YUKIの「ふがいないや」について

謎めいたリフレインの意味

ハチミツとクローバーIIの主題歌として有名になったYUKIの「ふがいないや」は、ぼくのなかで長いことその不思議な魅力を保ち続けてきた。
ふがいないやという詠嘆からつづけて放たれる「いやー、いやー」というサビの力強さに、どうもとりこになってしまったらしい。
しかし一体この「いやー、いやー」というのは何なのだろうか。
先日、歌詞カードを見て、不思議なことに気づいた。
すでにネットでは指摘していらっしゃる方もいるのだが、音で聞くだけでは「いやー、いやー」としか聞こえないそのサビの表記に、なぜか、ひらがなの「いや」と漢字の「嫌」が使い分けられているのだ。あたかも「いや」と「嫌」は別の事柄をさすかのように。

これはいったいどういうことなのか。
そこであらためて歌詞を見て気づいたのは、ひらがなの「いや」が、じつは一年を示す英語のyearのもじり(言葉遊び)なのではないかという解釈の可能性だ。
じっさい、この歌は、

秋になり また 冬になり ひとつ年をとった

 というように一年の終わりの歌である。


このような一年の終わりのイメージは歌詞のいたるところにちりばめられている。たとえば、「一人でも 大丈夫よって めくれてるわたしのストーリー」という歌詞は、暗に「日めくりカレンダー」のイメージを前提としているように思われるし、冒頭の雪景色と、「哀しくって 泣いてばかりいたら 芽が溶けてなくなった」という歌詞は新しい春の訪れを待つ冬の終わりの情景を描き出す。なにより決定的なのは、

さながら 昔からよく知る となりの あの娘のように
片方の耳たぶで聴く 卒業のカノン


という詩句が示すように、歌詞のなかの「私」は卒業を間近に控えているということだ。だからこの歌は一年間の終わり、別れの季節を前にした心情を歌っていると解釈できるだろう。
そうしてみると、一番の「遠くまで 逃げているつもりでも 終わらない君のストーリー」と二番の「消えてしまう 愛しい人も 優しい日々よ もうすぐ」という歌詞の意味もあきらかになる。卒業が引き起こす--ぽっかりとあいた穴のような--別れの悲しみにとらわれた「わたし」は、「初恋の人」にいまだ思いを打ち明けられず、「ひとりでも大丈夫よ」とうそぶき「にやにや 笑っている」ことしかできない*1。この歌詞はそんなじぶんの「ふがいなさ」に対する苛立ちを歌っているのだと読めないだろうか。
だとすれば、「ふがいないや、いや、嫌」は、じぶんの気持ちに素直に向き合うことが出来なかったこのふがいない一年に対する苛立ちをこめて、「ふがいないや、year、嫌」と解釈することができるはずだ。

歌詞はつぎのように閉じられる。

すがりながら 追いかけてみても あしげにされても

空いた穴を ふさごう ちがいないや。いや。

ふがいないや。いや。

つらいなあ。嫌。嫌。

 「嫌。嫌」の繰り返しがたとえ否定的に聞こえるとしても、伸びやかな声で歌われるこの箇所には鬱屈はない。それは卒業を前に、どんなに泥臭くとも、どんなにふがいなくとも、じぶんの気持ちに真摯に向かいあおうとする決心のように響くだろう。

 

*1:ひょっとするとこの初恋の人こそ幼なじみの「となりのあの娘」なのだろうか。「さながら(…)となりのあの娘のように」という行が後ろの「片方の耳たぶで聴く 卒業のカノン」の行にかかるのなら「あの娘」にはもうほかに恋人がいるのかもしれない。その場合、これは片思いの未練の歌だということになるのかもしれない

「窓」と「軒先」:高浜寛『蝶のみちゆき』感想ノート

高浜寛の『蝶のみちゆき』を読んだ。思えば何年か前に、異邦の地で肩の凝らずに読めるものを探していて、ふと電子書籍で出ていた『トゥー・エスプレッソ』を買ったのがこの作家とのはじめての出逢いであった。いっけんノンシャランとうつる筆遣いと物語の気負いのない運びの背後にある絶妙に計算された構成に驚かされたわたしは、以来すっかり虜になってしまったのだった。
 そのときはその卓抜なストーリーテリングの技倆、特に、起伏なく流れていく「時間」そのものをコマに定着させる力に唸らされたものだけれど、今回は明瞭な起承転結のなかに、この作家本来の構成の巧さが際立っていた。
 とくにわたしが気になったのは「窓」や「軒先」をめぐる構図の用い方だ。冒頭部(p.1-3)をひいてみよう。
 なにやら商談をしているらしきふたりの大人を室内に描きながら、カメラは軒先の庭に蝶を見つめるふたりの子供を捉えている。年長の子供は見事な模様のある服を、小さな子供はつぎはぎだらけの服を着ている。「羽の黒帯は『夏生まれ』のしるし。それがある蝶は長生きできない」と年長の子供が言う。カメラはなにかを予感させるように子供の着物の裾をとらえる。と瞬時に景が変わり、長崎の街を眼下に見つめる遊女の姿と庭に面した軒下で午睡をしているように見える男が交互に描かれる。
この最初の数カットが予感させるように、作品では、室内空間と外部に開けた軒先や窓といった対比が繰り返し描かれる。それはあたかも舞台となる長崎が、長い鎖国を続ける日本にとって、数少ない世界への「窓」口であったことを象徴するかのようである。その「窓」はどうじにまた、遊郭の「廓」と外界をつなぐ界面でもあったろう。問題は、この作品において「窓」がたんにそういった閉鎖性と開かれた外部の対比の象徴となるばかりではなく、物語の中できわめて有意義な機能を担わされている点にある。そのことをノートの形で簡単に示したいと思う。


 古今おおくの物語を駆動しているのは手持ちの情報の不均衡から来る登場人物同士の「すれ違い」であり、物語の筋立てはその解消や錯綜によって構築されているのが常である。この作品もまたその例に漏れない。登場人物と彼らが抱えた葛藤を大まかに整理すると次のようになる。

 

①健蔵。几帳(この葉)の義理の息子。彼は、この葉がなぜ病身の夫源一郎をおいて姿を晦ましたのかを知らない。身請けの金を支払わせておきながら、不治の病に倒れた父を捨てた彼女を彼は深く憎んでいる。


②源一郎。几帳(この葉)の病身の夫。脳腫瘍のため、言葉を発しはしない。妻「この葉」がなぜ行方を晦ましたのかは知る由もないようだ。症状で歪んだその表情は、彼の心の苦しみをも表しているのだろうか。


③トーン先生。オランダ人の医師。懇意にしている几帳の真意を知らず、じぶんのもとに担ぎ込まれた源一郎を几帳の兄だと勘違いしている。そこにはほかのふたりのような葛藤は見られないものの、やがて彼は真相を知ることで深く傷つくこととなる。

 

これら登場人物たちの思い違いのすべての中心に④几帳=この葉がいる。

  彼女の主人公たるゆえんだが、あらかじめ言ってしまえば、そのような擦れ違いの解消を描くのに「窓」や「軒先」といった室内から外部に開けた空間がつねに重要な役割を果たしているのである。


たとえばトーン先生の場合、源一郎に「口吸ひ」をする几帳を彼が盗み見てしまうのは「窓」を通してである。身体は許そうとしても、口づけだけは許さなかった几帳が源一郎には心からの接吻を与えるのを盗み見て、源一郎を彼女の兄だと勘違いしていたトーンは真実を知る。「几帳」ではない「この葉」をはじめて目にした彼は、なぜ彼女が医師であるじぶんに近づいたのか、その残酷な真実を知ってしまう。この重要なシーンでトーンの「思い違い」をあきらかにするのはまぎれもなく「窓」という装置である(p.106-107)。

「源一郎」の場合はどうだろうか。物語の転換部にあたるp.82の一コマ目で小さく描かれる、軒先に遊女の姿が掠めるシーンを読み返そう。 脳腫瘍で硬直した源一郎の表情が一瞬はっと生気を帯びることに注目したい。これはいったい何を意味するのか。軒先を掠めた遊女が歌っている歌は端唄「春 雨」であるが、じつはこれはp. 95で几帳が練習している歌なのだ。ということはこの遊女は「几帳」なのではないか。真偽はともかくとして、源一郎の眼前に「遊女」時代の几帳の姿を現出 させるに十分なはずだ。

そして物置での健蔵と徳さんの会話。もし源一郎に意識があるなら、その話の内容は聞こえていてもおかしくはない。おそらく、軒先にこの遊女の姿を見、そして健蔵と徳さんの会話を耳にした源一郎は、この時点で、すべての真実を悟ったのではないだろうか。

こ の「軒先の風景」にはしたがって、その後の源一郎の容態の変化の一因、見舞いにきた「この葉」をまえに彼が”あえて”寝たふりをし続けたことの理由がある ように思われる。もっともこれはひとつの仮説、解釈であることを断っておく。何人も源一郎がいつから起きていたのかを知る由はないからだ。もし仮に、源一 郎が「この葉」をまえにあえて眠った振りをしたのだとすれば、それは夫と義理の息子に「男相手の商売に戻ることを知られたく」ないあまり、ものいわず行方 を晦ました几帳=この葉に対する源一郎のせめてもの優しさなのかもしれない。

 彼の死後、几帳が眺める「窓」の外には、まるで歌舞伎の演目『蝶のみちゆき』さながらに、二羽の蝶が舞いとび、源一郎とこの葉、和解したふたりの魂があの世でひとつになることを告げている(p.121)。

 

 最後に「健蔵」の場合。彼の「この葉」との擦れ違いが真に氷解するのは後日譚、物語が終わりにさしかかってからである。真面目だった父「源一郎」と「この葉」の馴れ初めを尋ねる健蔵の目に「窓」や「軒先」が映るシーンは描かれない*1。しかし、この作品を読んだことがあれば、そのようなシーンを、健蔵のかわりに我々はすでに目にしていることに気づくはずである。

それこそがさきに引用した冒頭のシーンである。いわばここでは「思い違い」は読者に対して仕掛けられているのであり、その解消こそがこの作品の本筋なのだといえるだろう。ひょっとすると、もっとも重要な「窓」とは読者が見ているコマのことなのかもしれない。

「几帳=この葉」はこうしてつねに、窓の中、「廓」の中にいて、外から人々の視線に晒され、内から外を眺めている。だから、p.146-7で、自らを迎えにきた健蔵に対し、じぶんはのこりの一生を「廓」で過ごすつもりだと言う几帳が、窓辺に立った姿で描かれるのは、きわめて意義深いものだといえるだろう。それは彼女の生き方そのものだからだ。

「窓」によってのみ外部とつながる「廓」はここでは新しい時代から取り残された儚い「夢」の世界である。それはかつて彼女が、窓から眺める「出島」の風景を、新しい「夢」の世界と喩えたのとは対照的だ。「あんたは、あんたの新しい夢をみんなし」それは頁の窓の中に邯鄲の夢を見た読者に対するメッセージでもあるのだろうか。

物語は最後に解消されないひとつの秘密を残して終わる。それは「几帳=この葉」の思いである。すでに病に蝕まれつつあり、源一郎の待つあの世へ旅立つ覚悟をひとしれず決めている彼女の真意は健蔵には窺い知れない。

ここでは、あたかも「窓」は 思い違いを解消する交通路としてではなく、むしろ「擦れ違い」を生み出す「秘密」と「韜晦」のための装置として機能しているかのようだ。

 いずれにせよ、プロットの解消点、結節点にはつねに冒頭部で描かれていたあの「窓」と「軒先」のモチーフが現れることになる。これらの外部に開けた空間をまえに、縺れていた物語の綾は解きほぐされていく、たったひとつ「この葉」の純粋な思いだけを残して。高浜寛の繊細な語りは、なによりもまずその絵に描かれた空間構造よって支えられているのだ。

 

 

 

 
 

*1:ただし、前後のシーンからもあきらかなように遊郭の一室に座っている彼の正面は郭の外を見渡す「窓」である

冬の蛍:須藤まゆみの「蛍火」について

「蛍火」はデレマスの北条加蓮によるカヴァーを聞いて以来、大好きな曲のひとつなのだけれど、タイトルの「蛍火」という語にずっとひっかかりを覚えていた。

なるほど調べてみると、蛍火というのは俳句の季語のひとつで、蛍の光のことであるという。蛍は夏の風物詩であるからこの言葉はとうぜん夏の季語に当たる。ところが、歌詞に立ち戻ってみるとすぐに気づくように、うたわれる情景は冬の話なのだ。
冬の蛍といわれると、いったいどういうものなのかとふしぎに思わずにはいられない。

だが、これをたんに作詞者の短慮のせいにするのも、どうも釈然としない。作詞者の椎名豪さんによると、この詞を書いていたのは花火大会のころで、そもそも歌詞自体、儚げな水上花火の姿に着想を得たということだから、夏の季語を用いることは、作詞の状況だけを考慮するならそれほど不思議なことではない。それなら、なおさら歌詞の舞台を何故あえて冬に設定したのか、ということが気になってしまう。


そこで歌詞をもう一度読んでみると、どうも暖かさと冷たさの反転がこの曲のモチーフになっているのではないか。
歌詞に過剰な意味を読み込んでしまうのは、聞き手の悪癖と嗤われるかもしれないのだけれど、雑記としてここにひとつ、−−もとのゲームをプレイしたことがないので、歌詞から読み取れることだけにもとづいたごく私的な解釈だということを最初に断ったうえで−−思ったところを書き留めておく。


そもそも、冬の夜中に光る蛍火というイメージによってあらわされるのは、誰だろうか。いうまでもなく、それは「わたし」の思い人で、いまは亡き「きみ」のことである。
一般に蛍の光に付きまとう儚さのイメージが、ここで旅立っていってしまった「きみ」の姿に死の影を落としていることはうたがいえない。「蛍火」のイメージは、したがって連想の上では、第三パラグラフに出てくる「白く光る淡雪」のつめたい儚さと重なっていると読むことも出来るだろう。

けれどひとたび歌詞の流れに立ち戻ると、ここでは「淡雪」や「蛍火」はかならずしも「死」や「儚さ」を直接示しているわけではないことがわかるはずだ。「白く光る淡雪さえ とけないほどに寒い」という歌詞がしめすように、ここでは淡雪が溶けてなくなってしまう怖れのようなものはまだはっきりとは感じられない。それは過去において「わたし」がまだ「きみ」の死の予感にはとらわれていないことを示している。

そこにいるのは元気な「きみ」の姿だ。じっさい後半部と違って「きみ」の身体は、ここでは「冷たい死」よりも「命の暖かさ」に結びつけられている。前半部、この冷えきった冬の情景の中で寒さに凍える「わたし」の「かじかむ手」を暖かく包み込むのは、優しい「きみ」の手なのである。

ここにまず「冬の蛍火」という時期外れの季語が選ばれたひとつの理由を見ることが出来るかもしれない。
「きみ」は、なによりもまず、凍える夜に「わたし」を暖かく照らす「星たち」なのであり、まさに冬の荒涼とした風景の中に迷い込んだ、夏の「蛍」の光なのである。

だけれどもどうじに「きみ」の「光」は、朝には消えてしまうか弱い星の光、冬の季節にしか咲かない「淡雪」の光でもあることを忘れてはいけない。
ちょうど前半のリフレインとコントラストを作るかのように、「夜」と「朝」の景の転換を機に、「きみ」の死がつぎのように歌われる。

 

白く冷たい頬に 最後の花かざるとき


暖かかった「きみ」の手から、冷たくなった「きみ」の頬へ。前半部と後半部は、「暖かさ」と「冷たさ」の反転の構図によって構成されていることは明白だ。そして「きみ」が命の暖かみを失ってしまったいま、かじかむ手の「わたし」とそれを暖める「きみ」の関係もおなじように反転する。
みなが泣きながら別れを告げるそのとき、きみを遠くから眺め、ひとりぽつんとしている「わたし」は「海に咲くとても小さな和火」として描かれていることに注目しよう。
仮に海が「冷たさ」や「悲しみ」、和火が花火(これもまた蛍と同様、夏の風物詩)のことを指すのだとすれば、この表現がおなじ「光」のモティーフとして「(冬の)蛍火」と対応していることはいわずもがなだろう。
「きみ」=「蛍火」から「わたし」=「和火」へ。凍えていた「わたし」を暖めてくれた「蛍火」の「きみ」が、いまは「白く冷た」くなって、「和火」としての「わたし」に見守られている。「暖かさ」と「冷たさ」、ふたつの感覚を通じた、「わたし」と「きみ」の立場の反転の物語がここにはある。

さてここからはぼくの勝手な想像なのだけれど、「冬の情景」と「蛍火」という取り合わせが示すように、これは冷たいものと暖かいものがちょうど膚を触れ合うようにして結びつく歌なのだと思う。
冷たさと暖かさが結びつくとき、なにが生まれるか。この歌詞においてそれはおそらくふたつの反転だろう。

あの日凍えるわたしの「手」を握った「きみ」の手は、いまは「暖かさ」を失ってしまった。反対に「わたし」は冷たくなった思い人の頬を眺めながら、命の火を小さく燃やし続ける。

その火の温もりはきっと、いつか「わたし」のかじかむ手を握った「きみ」の体温の名残なのだろうか。