波間の現実感覚:「なつやすみのおさかな」の歌詞について
夏休み、毎日海へ出かけて遊んでいたら、新学期が始まってもぼんやりするばかりで、いつまで経っても普通の学校生活に戻れない。子供時代、そんな経験をした人はおそらく一人や二人ではないと思う。まるで波の揺れが身体の深くに刻み込まれて、僕たちの存在をそっくり作り変えてしまったかのような経験。きっと、一種の陸酔いのようなものなんだろうけれど、この曲は、そういう誰でも一度は体験したことのある感覚を見事に歌詞に結晶させている。
なつやすみのおさかな. 田ノ岡 三郎 作詞 作曲 編曲
目が覚めると今日も海の中夏休みはずっと おさかなおひさまがはじける波間を浮かんだり 沈んだりブクブクブク ゴボゴボゴボ フワフワフワ ザザザザザザブクブクブク ユラユラユラ キラキラキラ ザザザザ・・・波打ち際でスイカが割れて気が付くとそこは遠い海学校のはじまりの日が来てもおさかなのまま 遊んでたブクブクブク ゴボゴボゴボ フワフワフワ ザザザザザザブクブクブク ユラユラユラ キラキラキラ ザザザザ・・・みんなの待つ教室には ぬけがらだけ置いて夢見たまま 覚めずに 青く揺れながら
歌詞は一番と二番それぞれ、夏休みのこと、新学期のことを歌っているように見える。
「ように見える」と書いたのは、ここではそういったことまでもが実に不確かに感じられるからだ。それぞれの出だしを比べてみよう。
「目が覚めると今日も海の中」という歌詞と「波打ち際でスイカが割れて気が付くとそこは遠い海」という歌詞の対照は誰の目にも明らかだろう。「目がさめると」「気がつくと」という部分が示すように、一番も二番も、意識がまどろみからふっと形をとってくるような瞬間から始まっている。そこだけを取り上げてみるなら、この二つの部分それぞれに続く箇所は、全く同じ手応えの現実を描いているように見える。実際、リフレインでは、同じオノマトペを使って、波間に浮かんだり沈んだりする主人公の身体感覚が同じように描かれているのだ。
ところが、二番の歌詞を読めばわかるように、事情はどうやらそうではないらしい。「遠い海」の遠さ、「学校のはじまりの日が来ても おさかなのまま 遊んでた」という一文、そして「みんなの待つ教室には ぬけがらだけ置いて」という章句が示すように、二番で歌われているのは、新学期が始まっても授業に集中できず、海のことばかり考えている主人公の白昼夢にすぎないようなのだ。そうすると一番の歌詞までもが、果たして夢なのか、現実なのか怪しくなってくるような感じがする。ここにおそらくこの歌詞の企みがある。
歌詞の最後の箇所に注目しよう。
みんなの待つ教室には ぬけがらだけ置いて夢見たまま 覚めずに 青く揺れながら
一見なんということはない文章だ。「夢見たまま 覚めずに」という部分までは、教室で白昼夢を見ている主人公を描く、ごく写実的な客観描写だと言ってよい。ところが「青く揺れながら」という最後が、景色を転換させる。「青く揺れ」ているのは、現実の教室にいる「ぬけがら」ではなく、夢の中での主人公の姿であるべきはずだからだ。この一文は、あまりにも自然な形で、現実から白昼夢へ、一気にジャンプしてしまっている。
そもそも、青く揺れているというのは、海の照り返しを受けた主人公の姿だろうか、それとも海そのものの描写なのだろうか、この単純な点すらもここでは全く確かではない。あたかも海の波揺れが、主人公の内部を浸して、彼の自我にすっかり置き換わってしまったかのように、ここでは主人公は青く揺れる海と一体化している。
してみると、奇妙なことに、歌詞では初めから終わりまで一切の一人称主語が明示されていないことに気づく。「夏休みはずっと おさかな」という文にしても、開いてみるならば「夏休みはずっと(「僕」は)おさかな(のようだった)」というふうになるだろうが、歌詞では、僕や私といった一人称をあえて省くことで、主人公と「おさかな」の距離、あるいは主体の自己意識そのものを廃絶してしまい、歌詞の強烈なフックにするという秀逸なテクニックが使われている。それはあたかも、夢と現実の区別同様、「僕」と「おさかな」の区別も波間の運動に消え去ってしまったかのようである。
こうして全てが夢と等価なものでしか無くなった時、唯一確かな手応えを持って現れるのは、繰り返されるオノマトペのリフレインだろう。
ブクブクブク ゴボゴボゴボ フワフワフワ ザザザザザザブクブクブク ユラユラユラ キラキラキラ ザザザザ・・・
この動きやきらめきの中に、この歌の奇妙な現実感覚がある。それはきっと新学期になっても、夏の海のことを忘れられない全ての子供達のものでもあるのだろう。