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夢と灯火

身辺雑記, etc. 主に気に入った音楽や漫画についての感想

紫陽花の微笑:高浜寛、フレデリック・ボワレ著『まり子パラード』感想

仏語版『まり子パラード』

あらすじ

写真を元に絵を描くフランス人の漫画家と、日本人のまり子はすでに数年来、作家とモデルという関係を続けている。『まり子パラード』は江ノ島でのふたりの淡々とした取材紀行を背景に、芸術の勉強を続けるために留学を決意したまり子が漫画家に別れを告げ、去っていくまでを描く。この作品は漫画家フレデリック・ボワレとそのモデルをつとめる日本人女性の関係に取材しつつ、高浜が漫画を描き、そこにボワレが写真から生み出した「まり子」のデッサンを挿入し、纏め上げるという形で作品化されている。

この作品の日本での公刊のあと、親類や友達は、みな、さまざまな反応を返してくれました。そんな彼らが言ったことのなかで、ただひとつだけ、同じことがありました。
「ここには筋と言っていい筋は無い。時間だけが流れる。ただ頁を閉じたとき、心にひとつの重石が残る。ほとんど、苦しみといっても良いような」(高浜寛、仏語版序文)



①時間と情動

筋らしい筋が無い漫画では、画面と台詞の恊働によって生み出されるコマの継起が、登場人物の心理の微細な動きを表現し、ただ淡々と流れ行く時間を現出させる。
その空白にわれわれは、一種の情緒を読み込もうとする。
そこでは、心理は、分析や叙述の対象ではないことに注意しよう。たとえばこの作品、『まり子パラード』において、まり子に別れを決意させた動機、その芯にある部分を掴むことは難しい。特別不幸でもなく、男を嫌っているわけでもない、画面からは焦燥などは決して伝わっては来ないのに、彼女はいったいなにを思い出発を決意したのか。そのことを考えると、宙をつかむ思いがする。のちの突堤の場面で、彼女自身から、留学の計画があかされるが、それは物語のなかでひとを突き動かすあの明白な動機とはどこかかけ離れ、よそよそしい曖昧な輪郭を保っているように思われる。

おそらく、この作品に作者が序文で引いた「苦しみ」があるとすれば、それはまさにこの点においてではなかろうか。
漫画家は突然訪れる別れの理由をはっきりと理解することは無い。おそらくは、まり子自身もまた、本当の理由は知らないのだ。ただ別れの予感だけがある。無慈悲という形容でさえまだ人間的な暖かみを保っており、それゆえに不適当であると言いたくなるほどに、なんの理由も目的も無くただ過ぎ去っていく時間の持続、それこそがまり子に出発を決意させたものだ。



②微笑み

漫画を通じた、このような時間の体験こそが、「苦しみ」と言ってもよいような「ひとつの重石」を残す。

そのいっぽうで、ふたりの別れを語るこの突堤の場面が、ときならぬフナムシの攻勢によって中断されるように、この作品には、そのような不安と苦しみに陳腐に淫することを妨げる軽さや微笑があることも忘れてはならない。

だが、もし分析を一歩具体的に進めるならば、微笑とは時間の苦しみをまえにした表情でなくてなんだろうか。

この作品において、しばしば「まり子」はいたずらっぽく微笑んでいるが、それはたんに絵柄の問題ではなく、厳密に作品の主題である。たとえば、43頁からひたすら微笑みとその変奏ばかりが画面を埋め尽くすのを見てみよう。「私は意味も無くわらうのよ」というまり子の台詞からはじまって、ボワレのデッサンに切り替わり、まり子の口元とともに、Front(前線)=歯の防衛を謳う口内衛生用品の広告の人物、アンネフランク、エノラゲイのパイロット(?)、ベトナムの戦災児(?)などみな一様に笑みを浮かべた写真の口元がつぎつぎとアップに映し出され、それがまり子の一文字に閉じた口を隠す扇に描かれた微笑みのような弧へと至る。これらの上弦の半弧のモティーフは、戦いを模した獅子舞の螺旋運動をつうじて、船の軌跡へと姿を変え、読者はボワレのデッサンから高浜の漫画へ戻るだろう。微笑みのモティーフは、戦争というもうひとつの主題と結びつきつつ、まるでその無償性を誇示するかのように、画面に溢れている。

 

重要なのは、このような微笑みの主題が、その儚さ、意味をはぎ取られた他愛なさによって、時間と別離、そして苦しみに結びついていることだ。そのことは64頁を見ればあきらかだろう。まり子の笑顔を画面一杯に映し出しながら、つぎのような漫画家の独白が入る

 「いつか、きっと彼女は消えてしまう。たぶんこんなふうに笑いながら」

 

『まり子パラード』においては、微笑みと別離、苦しみはしたがって境を接した感情である。それは、94頁、漫画家とまり子の性行為がほとんど写真に近いかたちで、印刷されている場面にもみとめられるだろう。そこでは、「好き」と微笑む「まり子」の写真の横に、漫画家の「僕も」という台詞が、吹き出しとともに挿入されている。次の頁に進むと、物語はふたたび高浜の絵に戻る。そして、性行為の後のふたりの会話が続けられるのだが、そこで、写真(?)とまったくおなじやりとりが、ただし、今度は、漫画家とまり子の台詞を反転させて繰り返される。そのとき写真(?)のなかで笑っていたまり子は、今度は泣いているのだ。

微笑みと苦しみ、その背中合わせの同居、『まり子パラード』の主題はほとんど、これに尽きているのかもしれない。 

 

③デッサン

ここで、漫画家が絵を描くために写真を撮っているという事実はある種の重みを持つ。
写真は、たんなるデッサンの素材である以上に、このような時間から移ろいやすい微笑みの一瞬を切り出し、不動化してしまうために必要とされるからだ。
冒頭ですでに、漫画家の仕事が、作品というよりは、まり子と漫画家ふたりがともに生きた時間の記録になっていることが示唆されているが、このような愛の永続への願いは、最後の場面になって完璧に形をとる。その場面を見てみよう。


まり子はすでに旅だってしまった。船の軌跡が半円を描く。漫画家の歩く道も弧を描き、それがアップに映し出された紫陽花の描き出す半円に至る。漫画家は居なくなってしまった「まり子」を砂の上に描く。そしてその隣に寝そべって写真を撮ろうとするとき、その歩みは弧を描き、描かれたまり子は微笑んでいる。シャッターが切られる…

 

『まり子パラード』の表紙はこうしてとられた写真の一枚である。いまや作品は微笑みの移ろいやすさと写真=デッサンに刻印された不動の瞬間というふたつの時間の間で宙づりになる。
作品のキーをなす紫陽花。「愛の永続」と「変わりやすい心」、洋の東西を隔て、ふたつの花言葉を持った紫陽花は、「デッサン」と「微笑み」というふたつの時間の隠喩なのかもしれない。