180度の孤独:パスピエの「プラスティックガール」について
最近、バンド、パスピエを聴きはじめた。ヴォーカルの声質から相対性理論との類似が言われているようだが、個人的には、その楽曲の纏う奇妙な「懐かしさ」によって、どこか無機的な印象のある相対性理論の楽曲とは一線を画しているように思う。
なかでも好きなのは、「プラスティックガール」だ。
この楽曲は、遊戯性がつよい他の楽曲とは異なり、きわめて物語的ともいえる世界観を歌っている。リフレインを引用してみよう。
プラスティックガール
あの子の揺れないスカート 愛すべきニセモノだらけ180度
「ミニチュア模型広げ遊んでいた 勝手すぎる街」という歌いだし、そして「揺れないスカート」、「愛すべきニセモノ」といった表現を見ればわかるように、表題の「プラスティックガール」は、おそらく、ミニチュア模型の上に置かれたプラスティック製人形のことを指す。
つづくリフレインの
あの頃に戻れないなら 新しい嘘をついてよ おとぎ話聞かせて
という歌詞からは、ひとりの男が、人形とミニチュア模型をつかって、「撮影途中の映画みたい」に試行錯誤しながら、二度と戻ってこない青春の日々を再現しようとしている光景が読み取れるだろう。そうして主人公は、「おとぎ話」という虚構=「嘘」の世界のなかで、失われた時をふたたび取り戻そうとしているのだ。
だが、「あの子の揺れないスカート 愛すべきニセモノだらけ180度」と歌われるように、主人公もこの「おとぎ話」のなかに浸りきっているわけではない。
そのことはちょうど「180度」という角度に現れている。指のシャッターで「四角」に切り取られた「ハコニワの世界」は主人公を「360度」取り囲むことはありえない。それはつねに「180度」の限定された視界として、歌い手が決して入り込むことが出来ない、溶け込むことが出来ない世界を、ただひたすらに開示し続けている。
「あの頃に戻れない」という時間の隔たりは、ここでは「ミニチュア模型」に入り込むことが出来ないという空間的な距離と二重写しになっているといえるだろう。
この歌が喚起する痛切なノスタルジーはまさにここにある。
悲しくなんかないんだよ 涙は出ないくせに
でも寂しくなったら 誰かのせいにしていいかな
嘘やおとぎ話の力に頼っても消し去ることの出来ない孤独。埋められない距離。
このような孤独感をかりに「180度の孤独」と名付けてみたい。この孤独は、パスピエの歌詞の世界の根底にある主題とつながっている。
たとえば、「いい子だね こっち向いて、こらあっち向いちゃいけない」と歌う「ハレとケ」、「Yes/No」のスラッシュ記号、「右か左か 嘘か本当か/めまぐるしく変わる/いつの間にかウラのウラ」と歌われる「裏の裏」、そして、
うしろの正面だあれ あなたはだあれ
(「トリップ」)
巡り会い 巡れば巡る くるりくるり隣り合わせ
偶然はわざと 運命のしわざと
いついつ出やる輪の上 うしろの正面だあれ?なんてね
振り向いてほしいんだよ 同じ笑顔で待ってる
私に気づいて
(「トキノワ」)
と「かごめかごめ」の童謡がモティーフになる楽曲が複数存在していることからもわかるように、パスピエの歌詞においては、ほとんどつねに、表と裏、嘘と真実、いいかえれば、180度の角度を境にして隣接しながらも背馳し合う、ふたつの世界が問題になっている。
「180度」という数字は、したがって騙し合いや擦れ違い、孤独といったテーマと結びついたきわめてパスピエ的な数字なのである。
「プラスティックガール」のばあい、主人公とプラスティック製の「キミ」を隔てる、指で作った「四角」の透明な窓が、世界を180度ずつに分割する境の役割を担っているといえるだろう。
彼はじぶんのうしろの180度=現実をけっして振り向かない。透明な窓を破って「おとぎ話」の世界に入り込みたいという願いだけが彼を突き動かす。
この歌が人の心を動かすとすれば、まさに主人公のこのかたくななまでの願いゆえだろう。
歌詞はつぎのように、閉じられる。
今から 迎えに行くから
キミは変わらず微笑んで
両義的な結末*1だ。変わることのないミニチュアと変わりゆく此岸の対比を匂わせながら、永遠に移ろうことのない青春、「おとぎ話」の世界への扉がすぐそこにあるかのように信じられているのだから。
*1:パスピエにとって180度の「おとぎ話」を、反対側180度の現実によって否定することが問題ではないことに注意しよう。この180度の孤独を脱する唯一のイメージはおそらく「円」である。「Yes/No」の「Yes/Noのメリーゴーランド」という歌詞が示すように、裏と表は補い合って、円環を形作ることで、はじめてひとつの全体になるからだ。陰陽が互いに補い合う様に、「ワールドエンド」では「裏と表 表裏一体が絶対でしょ」と歌われている