夢と灯火

身辺雑記, etc. 主に気に入った音楽や漫画についての感想

波間の現実感覚:「なつやすみのおさかな」の歌詞について

 

夏休み、毎日海へ出かけて遊んでいたら、新学期が始まってもぼんやりするばかりで、いつまで経っても普通の学校生活に戻れない。子供時代、そんな経験をした人はおそらく一人や二人ではないと思う。まるで波の揺れが身体の深くに刻み込まれて、僕たちの存在をそっくり作り変えてしまったかのような経験。きっと、一種の陸酔いのようなものなんだろうけれど、この曲は、そういう誰でも一度は体験したことのある感覚を見事に歌詞に結晶させている。

 

なつやすみのおさかな. 田ノ岡 三郎 作詞 作曲 編曲

目が覚めると今日も海の中
夏休みはずっと おさかな
おひさまがはじける波間を
浮かんだり 沈んだり
 
ブクブクブク ゴボゴボゴボ フワフワフワ ザザザザザザ
ブクブクブク ユラユラユラ キラキラキラ ザザザザ・・・
 
波打ち際でスイカが割れて
気が付くとそこは遠い海
学校のはじまりの日が来ても
おさかなのまま 遊んでた
 
ブクブクブク ゴボゴボゴボ フワフワフワ ザザザザザザ
ブクブクブク ユラユラユラ キラキラキラ ザザザザ・・・
 
みんなの待つ教室には ぬけがらだけ置いて
夢見たまま 覚めずに 青く揺れながら

 

歌詞は一番と二番それぞれ、夏休みのこと、新学期のことを歌っているように見える。

「ように見える」と書いたのは、ここではそういったことまでもが実に不確かに感じられるからだ。それぞれの出だしを比べてみよう。

目が覚めると今日も海の中」という歌詞と「波打ち際でスイカが割れて気が付くとそこは遠い海」という歌詞の対照は誰の目にも明らかだろう。「目がさめると」「気がつくと」という部分が示すように、一番も二番も、意識がまどろみからふっと形をとってくるような瞬間から始まっている。そこだけを取り上げてみるなら、この二つの部分それぞれに続く箇所は、全く同じ手応えの現実を描いているように見える。実際、リフレインでは、同じオノマトペを使って、波間に浮かんだり沈んだりする主人公の身体感覚が同じように描かれているのだ

ところが、二番の歌詞を読めばわかるように、事情はどうやらそうではないらしい。「遠い海」の遠さ、「学校のはじまりの日が来ても おさかなのまま 遊んでた」という一文、そして「みんなの待つ教室には ぬけがらだけ置いて」という章句が示すように、二番で歌われているのは、新学期が始まっても授業に集中できず、海のことばかり考えている主人公の白昼夢にすぎないようなのだ。そうすると一番の歌詞までもが、果たして夢なのか、現実なのか怪しくなってくるような感じがする。ここにおそらくこの歌詞の企みがある。

歌詞の最後の箇所に注目しよう。

 
みんなの待つ教室には ぬけがらだけ置いて
夢見たまま 覚めずに 青く揺れながら

 

一見なんということはない文章だが、その実、奇妙な一文だ。「夢見たまま 覚めずに」という部分までは、教室で白昼夢を見ている主人公を描く、ごく写実的な客観描写だと言ってよい。ところが「青く揺れながら」という最後が、全ての景色を一変させる。「青く揺れ」ているのは、現実の教室にいる「ぬけがら」ではなく、夢の中での主人公の姿であるべきはずだからだ。この一文は、あまりにも自然な形で、現実から白昼夢へ、一気にジャンプしてしまっている。あるいはより正確にいうならば、夢と現実の両者が、ここでは区別が曖昧になるほどに混ざりあってしまっているのだ。

そもそも、青く揺れているというのは、海の照り返しを受けた主人公の姿だろうか、それとも海そのものの描写なのだろうか、この単純な点すらもここでは全く確かではない。あたかも海の波揺れが、主人公の内部を浸して、彼の自我にすっかり置き換わってしまったかのように、ここでは主人公は青く揺れる海と一体化している。

してみると、奇妙なことに、歌詞では初めから終わりまで一切の一人称主語が明示されていないことに気づく。「夏休みはずっと おさかな」という文にしても、開いてみるならば「夏休みはずっと(「僕」は)おさかな(のようだった)」というふうになるだろうが、歌詞では、僕や私といった一人称をあえて省くことで、主人公と「おさかな」の距離、あるいは主体の自己意識そのものを廃絶してしまい、歌詞の強烈なフックにするという秀逸なテクニックが使われている。それはあたかも、夢と現実の区別同様、「僕」と「おさかな」の区別も波間の運動に消え去ってしまったかのようである。

こうして全てが夢と等価なものでしか無くなった時、唯一確かな手応えを持って現れるのは、繰り返されるオノマトペのリフレインだろう。

 

ブクブクブク ゴボゴボゴボ フワフワフワ ザザザザザザ
ブクブクブク ユラユラユラ キラキラキラ ザザザザ・・・

 

この動きやきらめきの中に、この歌の奇妙な現実感覚がある。それはきっと新学期になっても、夏の海のことを忘れられない全ての子供達のものでもあるのだろう。

Lamp『さち子』の歌詞とMVの世界:丹念に束ねられ、重ねられたイメージ

一見なんとも甘いメロディの下に隠れた複雑な味わい。技巧を感じさせないほどの洗練、Lampの楽曲を要約するのならば、おそらくこういった言葉がふさわしいのだろう。その楽曲を彩る歌詞の世界、そしてMVの世界に視線を移せば、今度はその文学性が目をひく。
例えば、「さち子」は、歌詞を見ればわかるようにアンデルセンの『人魚姫』がその題材となっている。
 
夏の終りの水平線と甘い潮風 
髪を短く切ったばかりの肩を通りすぎた
 
海辺を走る貨物列車が運んで来たメランコリー
貝殻の中隠した涙とくちづけのプロローグ 
海よりも青いひと夏の…
 
今、カーステレオから流れ出すメモリーズ 
波の音 君のうたう声
 
夏の終りの誰そ彼時がとても淋しいと
風に飛んだ麦藁帽子の影を追いかけた
 
浜辺を走る赤いペディキュア さざ波を編んでいく
忘れかけていた人魚姫のエピローグ
海よりも深いひと夏の...

 

もちろんこの歌には、童話のようなはっきりとした物語が描かれているわけではない。確かなのは、語り手が、かつて付き合っていた女性との一夏の思い出を人魚姫のモティーフに仮託して回想しているということだけだ。童話のあらすじは、歌詞とはごくわずかにしか対応していない。それは、物語として歌詞に表現される代わりに、いくつかのモティーフを結びつける見えない求心力となることで、統一された雰囲気や感情を生み出しているというのが正確だろう。
 
引用の箇所を見てみよう。人魚姫がその声と引き換えに、地上で歩くための足を手に入れたことはよく知られている。海辺の砂浜という舞台を背景に、自分がかつて付き合っていた女性の赤いペディキュアをクローズアップする視線、波の音と恋人のうたう声を結びつける聴覚は、こうして現実の風景とおとぎ話の間に、一致しているような一致していないような、微妙な照応を形作る。
 
童話では、王子の愛を得られなかった人魚姫はまじない通りに海の泡となってしまう。ただし、彼女はそのまま消えてしまう代わりに風の精に転生するのだが。私の記憶が正しければ、確か童話は、彼女が王子とその恋人の間をそっと通り過ぎ接吻するというシーンで閉じられていた。だとすれば、
 
夏の終りの水平線と甘い潮風 
髪を短く切ったばかりの肩を通りすぎた
 
という冒頭の一節、「風」に吹き飛ばされる「麦わら帽子」、そして、
 
いつかこんな風に終わることわかっていた
短い季節
泡の粒は海の底へ消えていった 

 

というふうに、泡となって消えていく二人の恋の結末は、まさしく童話のエピローグと呼応しているといえよう。
 
このような端正な歌詞の世界は、ちょうどMVの映像と結びつくことで一種の叙情を生み出す。
ここで映像の全てについて言葉を費やすことはできないけれども、MVが歌詞と同じように、物語の時系列的継起というよりも、関連するモティーフの取り合わせによって形作られていることの意味は指摘できる。
 
 
 
例えばこのMVには、少なくとも「都市の風景」と「海辺の風景」という二つの異なった風景が現れるのだが、ちょうどその切り替えを繋ぐのは、冒頭部、カフェに入ったヴォーカルの永井祐介扮する主人公が、コーヒーにミルクと砂糖を落としたあと、自らの眼に目薬をさすシーンである。
 
このシーンの合間には、コップの中の水に赤いインクが広がっていく映像や、榊原香保里扮する恋人役の女性がオブジェ「新宿の目」の前にたつシーンなどがフラッシュバックし、最後に焦点の合わないカメラで水槽の魚たちがぼんやりと映し出される。
これらのカット間に厳密な物語上のつながりはない。ただ、運動と形態の類似だけが、物語の代わりをする。赤いインクが水中に広がっていく有様は、コーヒーに広がっていくミルクの運動と結びつき、背景に映る海のイメージへと連想を拡張する一方、「新宿の目」が目薬をさした眼を想起させることで、その前に立つ赤い服の榊原香保里は、主人公の目に蘇ったかつての恋人の姿を表現するのである。最後に水槽の魚たちを通じて、景色は恋人と一夏を過ごした海辺へと至るだろう。こうして歌詞で歌われている出来事、一夏の恋の回想は、暗示的な形にとどまったまま見事に映像化されるのだ。
 
これだけでもなかなか見事な作りだが、このシーンは、MVのラストとうまく結びつく仕掛けになっている。ポストに手紙を出しに行く主人公を現在時で映しながら、海辺の風景を一種の回想シーンとして映し出していたカメラは、ここで再び冒頭のカフェのシーン、永井祐介扮する主人公がコーヒーに砂糖を落とすシーンに戻る。
この切り替えを繋ぐのも、また形態と運動の類似であることを見逃すものはいまい。ちょうどこのシーンの直前で、グラスに注がれたソーダ水にさくらんぼを落とすシーンが挿入されているからだ。このさくらんぼは、コーヒーに落とされる砂糖と形態的、運動的に同じものであることは誰の目にも明らかだ。
 
こうして、ソーダ水に落ちたさくらんぼのアップから、コーヒーに落ちた砂糖の運動にカットをつなぐことで、海辺の回想の風景から冒頭のカフェのシーンまで戻ってくるようにMVは作られている。現在の時間と回想の風景が物の形態や運動の類似を通じてまたしても交錯するのだ。そればかりではない。ソーダ水に落ちたさくらんぼが泡を立てるこのシーンは、海に身を投げて泡となる人魚姫のイメージを喚起することで、童話『人魚姫』のエピローグとも重なることだろう。ここに、一見バラバラのモティーフを、童話『人魚姫』をつうじてまとめ上げる「さち子」の世界は十全に映像化されているのだ。

泉まくらの『春に』をめぐって

 
 
あしもと濁る薄い花びら 自分を重ねて怖くなったのは
大人が急に「もう子供じゃない」と 選択と決断を僕らに迫った頃
明日目が覚めればネクタイの結び目の仕組みを知る
戸惑いの中 置いてきぼりの春が来る

 

 
泉まくらの『春に』は、大学受験、そして卒業を迎える青春の心情を繊細に歌っている。「あしもと濁る薄い花びら」、「明日目が覚めればネクタイの結び目の仕組みを知る」、たったこれだけの具体的な細部から、受験と卒業の季節の不安な心の機微まで描き出す手腕は見事なものだ。
この不安はただ漠としたイメージに止まるものではなく、半ば具体的な輪郭を備えた登場人物を通じて、物語風に語られている。今回は、歌詞の一字一句を踏まえつつ、 この物語を辿ってみたい。
 

「僕」の「置いてきぼりの春」

この物語の登場人物は、おそらく二人の男女の高校生だろう。

一方には、「転校を繰り返して」少しグレてしまったかのような「僕」。彼は、「100点とる自信も」なく、素行の悪さから「反省文」を書くような劣等生だ。その彼とは対照的に「塾」に通い、「うまくやれれば」「一番」をとれるという優等生の「私」。

歌詞は「僕」のそんな「私」に対する「後ろめたさ」からはじまっている。
 
返せずじまい又貸しのマンガ
昨日書いた反省文なんか
胸もやつかせたのはいつでも
誰かへの似たような後ろめたさ
「あっそ」「だから?」
そんな返事がこわくてまたからかう
消しゴムにあの子の名前 おまじない
分かってるよ 全部僕次第

 

「誰かへの似たような後ろめたさ」、「あの子の名前」という形で暗に名指されているのは、おそらく歌詞の次の聯で歌われる優等生の「私」だろう。どうやら「僕」は優等生の女の子「私」を異性として意識しているようだ。
 
けれども二人の関係は恋人というほどには深くない。「『あっそ』『だから?』そんな返事がこわくてまたからかう」という箇所では、自分とはうって変わって真面目な女の子につれなくされるのが怖くて、いたずらをしてしまう思春期の男の子の心情の機微が的確に捉えられている。二人の間には、まだ微妙な距離があるのだ。
 
「消しゴムにあの子の名前 おまじない 分かってるよ 全部僕次第」という部分からは、そんな「僕」が、彼女の名前を消しゴムに書いて、一緒に同じ進学先に行けるようにおまじないをかけているという、いじらしい様子が読み取れるだろう。
 
「あしもと濁る薄い花びら 自分を重ねて怖くなったのは」というフレーズは、だから、好きな女の子と一緒に志望先に合格できないかもしれない、という「僕」の不安な感情を反映していると言える。自分とは違って、真面目で勉強ができるあの子は、きっと合格するだろう。自分は、好きな女の子に置いていかれてしまうのではないか。
 
そう考えてみると、リフレインは、試験の結果が出た後の話なのかも知れない。
「あしもと濁る薄い花びら 自分を重ねて怖くなったのは 大人が急に『もう子供じゃない』と 選択と決断を僕らに迫った頃」とあるように、ここでは、受験前の時点が過去として回想されているからだ。仮にそうだとすれば、「明日目が覚めればネクタイの結び目の仕組みを知る」という箇所は、受験に失敗して、就職を選んだ「僕」の境遇を暗示しているのかも知れない。
こうして、第一聯では男の子=「僕」の視点から「置いてきぼりの春」の到来が歌われる。
 

 「僕ら」の「置いてきぼりの春」

リフレインを挟んだ第二聯では、今度は優等生の女の子「私」の心情が歌われる。一見、順風満帆に見える彼女の心にも、卒業の不安はのしかかっている。
 
何になりたい? 何になれるの?
「それなりに」した努力の行き先
バカみたい「間違いだった」と言い切りたい
身長刻んだ柱も 夕飯で出た赤飯も
私を置いてくだけ
塾帰りうとうと電車揺られ
あと数ページめくってしまえば
いっしょに何かも終わる気がしてる

 

「私」は「それなりに」努力して受験の競争をきちんと勝ち残ろうとしている。あるいは、「夕飯で出た赤飯」というフレーズが示すように、これは彼女が合格した後の話かも知れない。けれども、勝ち残った先に何があるというのか。彼女にはわからない。あと少しで「何かも終わる気がしてる」。この何かというのは、ひょっとすると、「僕」への思いのことなのだろうか。彼女にはそれもわからないのだ。だから彼女は問いかける。
 
答え催促する態度 謳い文句
うまくやれれば獲れる一番も
嘘吐きたくない 私の意志だと
胸張れないのはどうしてだろう
あの日言ってた「春は嫌いだ」って
待って なんでかって教えて

 

​この構成は見事だ。なぜなら、第一聯では、劣等生の「僕」の視点から、優等生の「私」に「置いてきぼり」にされる不安が歌われていたのに対して、ここ第二聯では、あべこべに、どこかに行ってしまいそうな「僕」に「待って」と呼びかけるのは、順調に春を歩んでいるはずの優等生の「私」の側だからだ。今や構図は反転する。順調に見える彼女もまた流れる月日に「置いてきぼり」にされそうになっていて、何か見通しているかのような「僕」にこの不安な感情の理由を尋ねようとしているのだ。
 
こうして、男の子の「置いてきぼりの春」に、女の子の「置いてきぼりの春」が重ね合わされる。今や歌われるのは、「僕ら」の「置いてきぼりの春」だ。
 
あしもと濁る薄い花びら 自分を重ねて怖くなったのは
大人が急に「もう子供じゃない」と 選択と決断を僕らに迫った頃
明日目が覚めればネクタイの結び目の仕組みを知る
戸惑いの中 置いてきぼりの春が来る

 

この歌詞の肝は、対照的な境遇にある二人の意識を交互に描き出しながら、その根底の部分で通底する、「大人になること」を前にした不安を見事に浮かび上がらせる、このような意識のオーケストレーションにあるだろう。
 

結び

「僕」も「私」も、二人とも望まない形で、大人になるように駆り立てられている。「春」は、まだ、子供にすぎない彼らを置き去りに、容赦なくやってくるのだ。果たして、「僕」と「私」の物語の結末はどうなるのだろうか。それは次の箇所に暗示されているばかりだ。

 
でも明日目が覚めたらネクタイの結び目をほどき走る
戸惑いの中 置いてきぼりの春は来る
(ああ 待って いまだけ)
 

「僕」はネクタイの結び目をほどき、彼女のもとへ駆けていくのだろうか。囁くように歌われる「待って、いまだけ」の声は、きっと、流れる季節に取り残されそうになりながらも、それに抗って、懸命に今を走ってゆく二人の声だ。

 
 
 
 

 

–– 曖昧模糊として、鮮烈な –– :サニーデイ・サービスの歌詞(「セツナ」)についての覚書

サニーデイ・サービスの曲を最近よく聴いている。楽曲の素晴らしさは、門外漢の私などが言いたてるまでもない。今日ここで、私的なメモとして書き留めておきたいと思っているのは、サニーデイの歌詞の世界についてだ。
サニーデイの歌詞を読む・聴く人は、そこで「曖昧模糊とした鮮烈さ」とでもいうべき感覚を覚える。
サニーデイの歌詞は一見して曖昧だ。実際、一度歌詞に耳を傾ければ、そこで何が歌われているのか、必ずしも明瞭につかめるわけではないことに気づく。今回は、楽曲「セツナ」を例に取ろう。

 

夕暮れの街切り取ってピンクの呪文かける魔女たちの季節
ゆるやかな放物線描き空落下するパラシュートライダー
はじめっから汚れちまってる眠ることのない魂
また今日もいつものところで待ってるセツナの恋人

 

「魔女たち」といういささか文学的な非現実の闖入が示すように、これは謎めいた歌い出しと言っていいだろう。しかし同時に、ここで聴き手が戸惑うことはないというのもまた確かな事実なのだ。それは、「夕暮れの街」と「ピンクの呪文」という二つの表現によって、すでに全体の色調(トーン)が与えられているからだろう。

くわえて「ピンクの呪文かける魔女たちの季節」という箇所を注意深く読むならば、このピンクという色調が、「呪文」の効果としての"一時的なもの"であること、そしてこの一過性の呪文が、ある「季節」に結びついていることが容易に想像できる。


魔女たちの儚い「ピンクの呪文」、ここで咲き誇る桜を思い起こさないことは難しい。「今日もいつものところで待ってるセツナの恋人」とは、したがって不動のままに咲き誇り、やがて散っていく桜のことではないだろうか。「セツナ」の歌詞のうまさは、一切「桜」という言葉を用いることなく、夕暮れ時、一面に咲き誇る桜の光景を浮かび上がらせる(ポピュラーミュージックらしからぬ)この巧みな喚起力にある。

 

「ゆるやかな放物線描き空落下するパラシュートライダー」という箇所は、これと同じ意味で極めてサニーデイらしいフレーズだ。

この表現が、「ふたりでこの空を飛ぼう」と「きみ」に呼びかける「ぼく」を指しているのは確かだろう。だが、同時にこの箇所は、「きみ」–– すなわち「ゆるやかな放物線(を)描き」散っていく「桜」–– の花びらの運動を暗示してもいる。こうして「きみ」と「ぼく」は、深まってゆく夕暮れのなかを、二人して「ゆるやかな放物線(を)描き」ながら滑空していくのである。

サニーデイの歌詞においては、このように一つのイメージが、「名指されている事物」と「名指されていない事物」を同時に浮かび上がらせ、暗示的に結びつける。それは、輪郭の曖昧な言葉を通じて、かえって、一層鮮烈なイメージを呼び起こす「魔女たち」の「呪文」に他ならない。

 

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ちなみに、PVをよくみると、お花見をモティーフとした演出がなされている(ピンクの衣を纏った「刹那=桜」、他にも「手巻き寿司」のシーンや、宴会芸風の踊り、最後にゴミを捨てる三姉妹など)。

 


Sunny Day Service - セツナ【official video】

 

 

谷山浩子「月と恋人」について:満月の夜の狂ったダンス

  ① 曲の「禍々しさ」と回転のモチーフ

 

谷山浩子さんの歌詞の特徴に「得体の知れない禍々しさ」というものがある。一見、童話風の雰囲気を纏いながら、特定の読み方をすると凄惨な事件が浮かびあがるCOTTON COLORをはじめとして、陽気なメロディに乗って狂気が闊歩する「たんぽぽ食べて」、世界の滅亡を謳い揚げる滅亡三部作など、谷山浩子さんの歌詞にはしばしば後ろ暗い衝動のようなものが隠されている。

「月と恋人」もまた ––「きみの小指の先から邪悪な冷気が出てる」という歌い出しが示す通り––、そのような禍々しさを体現している楽曲だ。恋人と満月という一見ロマンチックな取り合わせは、ここでは、この両者が文化的にまとう狂気のコノテーションを通じて、恋の熱に浮かされて過ごす不眠の夜の錯乱へと姿を変えてしまう。

 

きみの小指の先から 邪悪な冷気が出てる

狂い始めたら 誰も きみを止められない 

一晩 しゃべりつづける なんにも意味のない嘘

クルクルと回るだけの きみと影のダンス

気をつけて(満月に)つかまるよ (あばかれた)

隠しても(心を)もう隠せない

月の子供のランラララ…

笑う夜 ランラララ… 恋する者たちは ランラララ…

眠れない いつまでも

 

小指のリングは片思い、関係の進展を願うものだと俗にいわれるが、その小指から放たれる「邪悪な冷気」とは、おそらく、片思いの恋に苦しんでいる「きみ」の暗い情念を象徴するものだろう。恋の熱に浮かされた「きみ」は、不眠の夜、くるくると同じところを廻り続ける。

狂気を思わせるこのような歌詞に相まって、ここでは、音楽がさらに強烈な「禍々しさ」のイメージを作っていることを見逃すわけにはいけない。もう一度曲を聴いてみてほしい。

 

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アコーディオンかなにかだろうか、同じフレーズが、おそらくは同じテンポで、周期的に鳴り続けていることに気付くはずだ。その音色は、まるで夜の人気のない遊園地で、メリーゴーランドがひとりでに回転し続けているような印象を与える*1 このような回転のイメージは、歌詞にあるつぎのフレーズによってよりいっそう明確なものとなるだろう。

 

狂い始めたら 誰も きみを止められない 

一晩 しゃべりつづける なんにも意味のない嘘

クルクルと回るだけの きみと影のダンス

 

歌詞で歌われる回転のイメージと、曲中の同じフレーズの反復、このふたつがひとつに結びつき、止まることを知らない「満月の夜のダンス」を、聴き手の脳内に音響的かつ映像的に描き出す。恋に取り憑かれ、同じところをくるくると廻り続ける「きみ」の心、それはまるでサバトを思わせる悪魔主義的な光景だ。この曲の禍々しさの理由のひとつは、まさにここにあるだろう。

 

 

② 回転のイメージから派生する「不毛さ」と「堂々巡り」のテーマ

この「きみと影のダンス」という表現の含意はおそらくそれに留まらない。「きみ」が恋愛と思っているものは、「自分の影」とのダンスにすぎない、つまりは不毛な一人相撲というわけだ。相手の気持ちがわからない不安にひとり空回りする「きみ」。ここでは片思いのなかでおそらく誰もが経験するであろうあの感覚が見事に表現されている。

二番の「見えないグラスの中に 見えないワインを注ぐ」という謎めいた歌詞は、おそらくこのような文脈で理解可能だろう。

 

見えないグラスの中に  見えないワインを注ぐ

国中のアクマたちと そして恋のために

 

恋愛を歌う曲において、グラスに注がれるワインは普通ならデートの場面を想像させるが、「見えないグラス」「見えないワイン」という表現は、この場面がまるで錯乱する「きみ」の妄想、勝手な思い込みであるかのような印象を与えてしまう。

自分の頭のなかにしかないはずの「見えない」ワインを、まるで実際に飲んでいるかのような気になって、いつのまにか酔いがまわっていく「きみ」の姿は、恋愛という狂気のきわめて的確な象徴表現なのかもしれない。

じっさい歌詞は次のように続く。

 

きみはただ恋のために、何もない恋のために

踊り続ける 疲れて 倒れて眠るまで

 

なぜ「何もない恋」なのか、その理由はもはや明らかだろう。不眠の夜を過ごす「きみ」は、ひょっとしたら自分の頭の中にしか存在しないかもしれない恋愛のために踊り続けているのだ。そこにはいかなる実体もない。勝手にくるくる回り続ける自動人形のように、「きみ」はただ自分の思い込みの中を堂々巡りしているにすぎない。

すでに指摘した反復するメロディは、まさにこの堂々巡り、どうしようもない自己反復をこれ以上ないほどにうまく表現しているといえるだろう。

以上のことを踏まえるとき、この曲が次のように閉じられることは、きわめて意義深いことに思える。

 

夢が心の ランラララ…

戸を叩く ランラララ…

誰もが胸騒ぎ ランラララ…

眠れない いつまでも

 

それは、堂々巡りに決着をつける、①外部からの「他者」の訪れ ②安心した眠り(夢)の訪れ ③恋の成就、このすべてを同時に表現しているように思われる。その訪れを待ちながら、いつまでも眠れない不眠の夜は続く……

 

*1:このような回転の印象は、すでに曲の始まりから聴き手に与えられている。そこでは、まず最初に不気味なSEがなった後、件の周期的なフレーズが徐々に加速しながら、一定のリズムに達する。この加速は、物体が回りはじめたときのような印象を聴き手に与えることに成功している。

翼なき者の翼:アイドルマスター ミリオンライブ!「アイル」についての覚え書き

アイドルマスター ミリオンライブ ! から生み出された楽曲「アイル」、多くのプロデューサー(このゲームのプレイヤーのこと)に衝撃を与えたこの曲は、すでに数多の感想、分析によって、その魅力が語られている。

ここですべての解釈を網羅することは不可能なので、話の枕として、ひとつ簡単な疑問を提示しておきたい。それは、アイルというタイトルはアルファベットでいったいどう表記されるべきなのだろうかという疑問である。

たしかに、この疑問についてはすでにいくつかの指摘がある。まず第一には英語のI'll (I willの短縮形) という意志をあらわす表現に基づいた表記。つぎに、教会や劇場など座席のあいだを通り抜ける通路を指す英語のaisleという表記。この第二の解釈は、やや苦しいものの、後に見るように歌詞中において道が重要なテーマになっていることから簡単には排除出来ない。
そして、第三の解釈。このアイル ≒ aisleという語は、中世フランス語で翼を意味するaisle(現代フランス語のaile*1)から来ており、その起源は同じく翼をあらわすラテン語のalaにあるという。どの言語から着想したのかは不明だが –– ラテン語はともかく、中世フランス語を直接参照している可能性はほとんどゼロだろう ––、この歌を歌うのが伊吹翼という名前を持ったキャラクターであることから当然この含意も含まれていると考えることができる。


これらの解釈はおそらくどれが唯一の正解というものではなく、それぞれに妥当なものだと思える。ただし、それを判断するためには、今一度、それぞれの解釈が歌詞とどのような関係にあるのか問わなければいけないだろう。歌のタイトルは歌詞から独立して存在するものではない。これらの解釈が、いったいどのような意味合いを歌詞に与えるのか問わなければ、解釈としては片手落ちになってしまうはずだ。

この短い覚え書きでは費やせる紙幅もないので、ごく簡単につぎのことを指摘することから始めたい。それはこのアイルという楽曲が、「伊吹翼」という名を持つアイドルを歌い手とし、あまつさえ「翼」を意味するラテン語と語源的に近しいタイトルを持つにもかかわらず、その内容は大空への飛翔のイメージからまったくかけ離れているということだ。
この歌詞は端的にいって泥臭い。そのことはまさに次の歌詞に現われている。


行く手阻む山の中を
くり抜いて向こう側へ
数秒間だけ見えた海の水平線キラリと光った

 

勝算なんてなくたって構わない
辿り着きたい場所へ行くため
坂道はちょっと邪魔だから
息を止めて海の底へも潜るんだ

 

ここでは、歌い手の「伊吹翼」は空を自由に駆ける「翼」を持っていない。
もし翼があるなら、空を飛べる。空を飛べるなら、山を越えることは容易だ。坂道など苦ではないだろう。トンネルを掘る必要も、海の底へ潜る必要もない。
海の底や地の底といった、飛翔とは対極のイメージが使われていることが示すように、「翼」を持たない、あるいは持っていても翼に頼ることのない存在が、海の底、地の底を這ってでも、目標に辿り着こうとする泥臭さがここにはある。


漫画ミリオンライブ第三巻特別版の表紙を思い返してほしい。そこで、翼にはたしかに羽が生えている。しかしその羽は本物の羽ではない。あくまで壁にかかれたペイントとしての羽だったことを。それは、天才肌の伊吹翼を描く際に、常人には持てない羽を持ち、楽々と困難を越えていくような「お気楽な存在」としてではなく、地中や海中を行くことさえ辞さないような「ひたむきで泥臭い存在」として描きたいという意志の現れではなかっただろうか。
おそらく、ここではじめて、アイルというタイトルは生きてくる。それは現実には「翼」(aisle / aile (aisle) / ala ) を持たない、ふつうの人間である、アイドル伊吹翼が、「道なき道」(aisle) を作って先に進んでいこうと必死に努力する姿を象徴するものとしてあらわれるのだ。特別版の表紙が示すように、アイドル翼が持つ本当の「翼」は、空を気軽に跳び回ることが出来るような翼ではなく、地の底でも海の底でもくり抜いて進んでいくような、この泥臭くも力強い意志 (I'll)のうちにあるのではないだろうか。

*1:ちなみに現代フランス語で翼を意味するaileはカタカナ表記ではエルとなるが、発音の規則を知らない場合、作詞者がこれをアイルと読んでしまった可能性もある。

夢と現実の交わらない交差点:ピチカート・ファイヴ『東京は夜の七時』をめぐる覚え書き

いくつかの前置き 


ピチカート・ファイヴ (PIZZICATO FIVE)の「東京は夜の七時」は、その軽妙で「キャッチー」なメロディとは裏腹に、どこかとらえどころがない歌詞で聴き手に不思議な印象を残す楽曲だ。


こういうとらえどころがない、難解といわれる歌詞を詳細に読み解くことは、楽しい作業に違いない。音楽を聴きながら歌詞カードを見て、ふとなぞめいた言葉に行き当たり、考えが動き出すという経験をしたひとはおそらく少なくないだろう。
ただし、こういった解釈はいつもひとつの「正解」に行き着くとは限らない。それどころか歌の解釈はしばしば開かれたものでありうる。それは陳腐だけれども自明の条件だといえる。
ここではあえて、「正解」を探すことをいったん括弧に括ってみよう。かわりに、歌を聴いたときに聴き手のうちに生まれる違和感が、いったいどのような理由から生まれてくるのか、いわばぼくが感じたこの曲の「とらえどころのなさ」の原因を、なるべく歌詞に即して言葉にしてみたい。

 

本文


「ピチカート・ファイヴの『東京は夜の七時』は、その軽妙で『キャッチー』なメロディとは裏腹に、どこかとらえどころがない歌詞で聴き手に不思議な印象を残す」とさきに書いた。
このとらえどころのなさは、歌詞カードを読んでみるまではひょっとすると自明ではないかもしれない。ところが、じっさいに歌詞を追ってみると、すでに歌い出しの第一聯から聴き手を戸惑わせるような仕掛けがなされていることに気付くだろう。

ぼんやりTVを観てたら
おかしな夢を見ていた
気がついて時計を見ると
トーキョーは夜の七時

 

「ぼんやりTVを観てたら/おかしな夢を見ていた」という一文に注目しよう。「おかしな夢」と書かれれば、いったいどんな夢だったのか知りたくなるのが人の性というものだ。当然、続く箇所に聴き手はその説明を期待する。ところが、直後には「気が付いて時計を見ると トーキョーは夜の七時」という一文が続くことになる。この「気がついて」の箇所は、前後の文脈からすれば「夢から醒めて」という意味にとることが「とりあえずは」可能であろう。したがって「トーキョーは夜の七時」というのは現実の「東京」の「現在時」を意味する、というふうにふつうは理解されるはずだ。


このフレーズ(「トーキョーは夜の七時」)は、このあともリフレインとして何度も繰り返されることから、第二聯以降の箇所は、「いっけん」 寝坊した「私」が「今日も 少し / 遅刻」しながら「タクシー」に乗って、待ちあわせ場所に急いで向かっているという「現実」の光景を、「時系列に即して」、うたっているように思える。

 

だが、その解釈だと、「おかしな夢」は第一聯に現れたきり、ほとんどなんの説明もされないままということになってしまう。まったく説明がないというのは、どこか不自然に思われる。

そもそも第二聯以降に、「おかしな夢」の報告が続くという読みの可能性を排除する理由は何処にあるのだろうか ? そんな理由はどこにも存在しない。「おかしな夢を見ていた」の続きがすべて夢の話である可能性すらある。実際に、続く歌詞をよく読めば、このような可能性が排除しきれないことを示すいくつかの不可解な細部が書き込まれていることに気付くだろう。

たとえば、

第五聯と第七聯では、待ち合わせ場所へ急いで「タクシー」で向かっているわたしの姿が描かれているが、

ぼんやり風に吹かれた
タクシーの窓を開けて
あなたに逢いに急ぐの
トーキョーは夜の七時

 

交差点で信号待ち
あなたはいつも優しい
今日も 少し
遅刻してる
早くあなたに逢いたい
早くあなたに逢いたい



この第五聯と第七聯のあいだには、

留守番電話が
突然ひとりで廻り始める
ひと晩中 喋り続ける
トーキョーの夜はフシギ


という聯が挟みこまれている。この時代、携帯電話が普及していないとするならば、留守番電話が「ひと晩中 喋り続ける」のを聴くために、「私」は家に留まっていなければいけないはずだ。よしんば携帯電話があったとしても留守番電話が「ひと晩中 喋り続ける」の聴いているというのは「夜の七時」にあなたに逢いにいこうとしているわたしの行動とは矛盾する。

したがって、第五聯=第七聯と、第六聯は、どちらか、あるいは双方が、夢のなかの出来事であると考えるのが自然である。「トーキョーの夜は七時」と韻を踏んだ「トーキョーの夜はフシギ」という歌詞や、状況の不自然さから、第六聯を夢のなかの出来事と考えることは不可能では無い。反対に、第五聯=第七聯は現実のことであり得るだろう。だが、仮に第六聯が夢で、第五聯=第七聯が現実だと特定出来たとしても、こうして「現実」の出来事のあいだに「夢」の出来事が挟み込まれることで、「夢」と「現実」の境界に一種のゆらぎが生じていることは否定出来ない。


このような印象をさらに強めるのは、第三聯と第九聯のあいだの奇妙なねじれである。

待ち合わせたレストランは
もうつぶれてなかった
お腹が空いて
死にそうなの
早くあなたに逢いたい
早くあなたに逢いたい

 

世界中でたったひとり
私を愛してくれる?
待ち合わせのレストランは
もうつぶれてなかった
バラの花を抱えたまま
あなたはひとり待ってる
夢で見たのと同じバラ
早くあなたに逢いたい
早くあなたに逢いたい
Yeah Yeah Yeah Fu



ここでは「待ち合わせ」先のレストランがもうつぶれてなかった、という同じ事柄がうたわれているように「一見」 読める。


ところがよく読むと、ふたつの歌詞の示す状況はいくぶん異なっている。


まず第三聯をみてみよう。「待ち合わせたレストランは / もうつぶれてなかった / お腹が空いて / 死にそうなの / 早くあなたに逢いたい」。この歌詞からなにが読み取れるだろうか。それは待ち合わせのレストランに行ったものの、レストランはもうすでにつぶれてしまっていて、あなたが「遅れて」やってくるまでひとりひもじい思いをしながら待ちぼうけをくらう「私」の姿である。

それとは反対に第九聯では次のようになっている。「待ち合わせのレストランは / もうつぶれてなかった / バラの花を抱えたまま / あなたはひとり待ってる / 夢で見たのと同じバラ」。こちらでは待っているのは、「私」ではなく「あなた」となっていることに気付かれただろうか。

第三聯と、第九聯とでは、待ち合わせのレストランがつぶれてしまったという同じ事柄を歌われているように見えて、じつは描かれている状況はあべこべなのだ。

さらによく読んでみると、第三聯では「待ち合わせた」と過去形になっているのに対し、第九聯では「待ち合わせの」という微妙な変更が加えられていることにも気付く。
もちろんこれだけではなんともいえないが、このふたつの聯がおなじ時系列、あるいはおなじ現実世界に位置しているとはにわかに考えがたい。

ひょっとするとどちらかが夢なのだろうか?じっさい「バラの花を抱えたまま / あなたはひとり待ってる / 夢で見たのと同じバラ」という文章は「おかしな夢」のなかで「私」が同種の光景を見ていた可能性を想起させる。「私」がお腹をすかせて待ちぼうけしている第三聯が「夢」の出来事で、反対に第九聯で「あなた」が「ひとり待っている」というのが「現実」の事柄であるという読みはとうぜん可能だろう。ただしそれが「正解」だという保証もまたどこにもない。なぜならそのあとに続くのは「早くあなたに逢いたい」という「私」の願望であって、「あなたに逢えた」という事実ではないからだ。

こうして解釈は宙をさまよう。

ここではこういった複数の解釈の可能性についてひとつの答えを出すことは慎もう。
それよりも、こういう矛盾を抱え、時系列も曖昧な歌がいっけんふつうのラブソングに聞こえるのはどうしてなのか、ということを問うほうがおそらくは面白い。それはおそらく「東京は夜の七時」というタイトルそのものに理由があると思う。
このタイトルは、その表記を「トーキョーは夜の七時」と変えて曲中何度も反復されているが、「トーキョー」で「夜の七時」に「早くあなたに逢いたい」と「私」が思っているというリフレインこそが、この曲にひとつの意味の統一を与えていることは疑えないだろう。この歌は、誰が読んでも「待ち合わせ」の歌であることは明白だ。

 

だがそれ以上に重要なことは、この歌が「待ち合わせ」の歌であると同時に「すれ違い」の歌でもあるということだろう。じっさい、この歌において「ずれ」はもっとも重要なモチーフだ。「遅刻」や待ち合わせ場所がすでになくなっていることが示すように「あなた」と「私」、あるいは「夢」と「現実」は結びつくようでいて、けして重なり合わない。それは、歌詞とそこから読み取れる無数の解釈がけしてぴたりとは重なり合わないということにも現れている。「トーキョー」と「東京」という表記のズレは、あたかもこのずれを象徴しているかのようだ。

「夜の七時」というのはしたがって、互いに矛盾する「夢」と「現実」が矛盾したまま結びつくような特別な瞬間であり、ひょっとすると同じ世界、同じ時間を生きていないかもしれない「あなた」と「私」がけっして交わらない奇妙な待ち合わせをしている時刻なのだ、そう考えてみるとすこし面白くないだろうか。

ピチカート・ファイヴが歌う「トーキョー」という「嘘みたいに輝く街」は「夢」と「現実」が、その境界をかぎりなく曖昧にしながら、すれ違い続ける、そんな街なのかもしれない。