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夢と灯火

身辺雑記, etc. 主に気に入った音楽や漫画についての感想

谷山浩子「月と恋人」について:満月の夜の狂ったダンス

  ① 曲の「禍々しさ」と回転のモチーフ

 

谷山浩子さんの歌詞の特徴に「得体の知れない禍々しさ」というものがある。一見、童話風の雰囲気を纏いながら、特定の読み方をすると凄惨な事件が浮かびあがるCOTTON COLORをはじめとして、陽気なメロディに乗って狂気が闊歩する「たんぽぽ食べて」、世界の滅亡を謳い揚げる滅亡三部作など、谷山浩子さんの歌詞にはしばしば後ろ暗い衝動のようなものが隠されている。

「月と恋人」もまた ––「きみの小指の先から邪悪な冷気が出てる」という歌い出しが示す通り––、そのような禍々しさを体現している楽曲だ。恋人と満月という一見ロマンチックな取り合わせは、ここでは、この両者が文化的にまとう狂気のコノテーションを通じて、恋の熱に浮かされて過ごす不眠の夜の錯乱へと姿を変えてしまう。

 

きみの小指の先から 邪悪な冷気が出てる

狂い始めたら 誰も きみを止められない 

一晩 しゃべりつづける なんにも意味のない嘘

クルクルと回るだけの きみと影のダンス

気をつけて(満月に)つかまるよ (あばかれた)

隠しても(心を)もう隠せない

月の子供のランラララ…

笑う夜 ランラララ… 恋する者たちは ランラララ…

眠れない いつまでも

 

小指のリングは片思い、関係の進展を願うものだと俗にいわれるが、その小指から放たれる「邪悪な冷気」とは、おそらく、片思いの恋に苦しんでいる「きみ」の暗い情念を象徴するものだろう。恋の熱に浮かされた「きみ」は、不眠の夜、くるくると同じところを廻り続ける。

狂気を思わせるこのような歌詞に相まって、ここでは、音楽がさらに強烈な「禍々しさ」のイメージを作っていることを見逃すわけにはいけない。もう一度曲を聴いてみてほしい。

 

www.youtube.com

 

アコーディオンかなにかだろうか、同じフレーズが、おそらくは同じテンポで、周期的に鳴り続けていることに気付くはずだ。その音色は、まるで夜の人気のない遊園地で、メリーゴーランドがひとりでに回転し続けているような印象を与える*1 このような回転のイメージは、歌詞にあるつぎのフレーズによってよりいっそう明確なものとなるだろう。

 

狂い始めたら 誰も きみを止められない 

一晩 しゃべりつづける なんにも意味のない嘘

クルクルと回るだけの きみと影のダンス

 

歌詞で歌われる回転のイメージと、曲中の同じフレーズの反復、このふたつがひとつに結びつき、止まることを知らない「満月の夜のダンス」を、聴き手の脳内に音響的かつ映像的に描き出す。恋に取り憑かれ、同じところをくるくると廻り続ける「きみ」の心、それはまるでサバトを思わせる悪魔主義的な光景だ。この曲の禍々しさの理由のひとつは、まさにここにあるだろう。

 

 

② 回転のイメージから派生する「不毛さ」と「堂々巡り」のテーマ

この「きみと影のダンス」という表現の含意はおそらくそれに留まらない。「きみ」が恋愛と思っているものは、「自分の影」とのダンスにすぎない、つまりは不毛な一人相撲というわけだ。相手の気持ちがわからない不安にひとり空回りする「きみ」。ここでは片思いのなかでおそらく誰もが経験するであろうあの感覚が見事に表現されている。

二番の「見えないグラスの中に 見えないワインを注ぐ」という謎めいた歌詞は、おそらくこのような文脈で理解可能だろう。

 

見えないグラスの中に  見えないワインを注ぐ

国中のアクマたちと そして恋のために

 

恋愛を歌う曲において、グラスに注がれるワインは普通ならデートの場面を想像させるが、「見えないグラス」「見えないワイン」という表現は、この場面がまるで錯乱する「きみ」の妄想、勝手な思い込みであるかのような印象を与えてしまう。

自分の頭のなかにしかないはずの「見えない」ワインを、まるで実際に飲んでいるかのような気になって、いつのまにか酔いがまわっていく「きみ」の姿は、恋愛という狂気のきわめて的確な象徴表現なのかもしれない。

じっさい歌詞は次のように続く。

 

きみはただ恋のために、何もない恋のために

踊り続ける 疲れて 倒れて眠るまで

 

なぜ「何もない恋」なのか、その理由はもはや明らかだろう。不眠の夜を過ごす「きみ」は、ひょっとしたら自分の頭の中にしか存在しないかもしれない恋愛のために踊り続けているのだ。そこにはいかなる実体もない。勝手にくるくる回り続ける自動人形のように、「きみ」はただ自分の思い込みの中を堂々巡りしているにすぎない。

すでに指摘した反復するメロディは、まさにこの堂々巡り、どうしようもない自己反復をこれ以上ないほどにうまく表現しているといえるだろう。

以上のことを踏まえるとき、この曲が次のように閉じられることは、きわめて意義深いことに思える。

 

夢が心の ランラララ…

戸を叩く ランラララ…

誰もが胸騒ぎ ランラララ…

眠れない いつまでも

 

それは、堂々巡りに決着をつける、①外部からの「他者」の訪れ ②安心した眠り(夢)の訪れ ③恋の成就、このすべてを同時に表現しているように思われる。その訪れを待ちながら、いつまでも眠れない不眠の夜は続く……

 

*1:このような回転の印象は、すでに曲の始まりから聴き手に与えられている。そこでは、まず最初に不気味なSEがなった後、件の周期的なフレーズが徐々に加速しながら、一定のリズムに達する。この加速は、物体が回りはじめたときのような印象を聴き手に与えることに成功している。

翼なき者の翼:アイドルマスター ミリオンライブ!「アイル」についての覚え書き

邦楽歌詞

アイドルマスター ミリオンライブ ! から生み出された楽曲「アイル」、多くのプロデューサー(このゲームのプレイヤーのこと)に衝撃を与えたこの曲は、すでに数多の感想、分析によって、その魅力が語られている。

ここですべての解釈を網羅することは不可能なので、話の枕として、ひとつ簡単な疑問を提示しておきたい。それは、アイルというタイトルはアルファベットでいったいどう表記されるべきなのだろうかという疑問である。

たしかに、この疑問についてはすでにいくつかの指摘がある。まず第一には英語のI'll (I willの短縮形) という意志をあらわす表現に基づいた表記。つぎに、教会や劇場など座席のあいだを通り抜ける通路を指す英語のaisleという表記。この第二の解釈は、やや苦しいものの、後に見るように歌詞中において道が重要なテーマになっていることから簡単には排除出来ない。
そして、第三の解釈。このアイル ≒ aisleという語は、中世フランス語で翼を意味するaisle(現代フランス語のaile*1)から来ており、その起源は同じく翼をあらわすラテン語のalaにあるという。どの言語から着想したのかは不明だが –– ラテン語はともかく、中世フランス語を直接参照している可能性はほとんどゼロだろう ––、この歌を歌うのが伊吹翼という名前を持ったキャラクターであることから当然この含意も含まれていると考えることができる。


これらの解釈はおそらくどれが唯一の正解というものではなく、それぞれに妥当なものだと思える。ただし、それを判断するためには、今一度、それぞれの解釈が歌詞とどのような関係にあるのか問わなければいけないだろう。歌のタイトルは歌詞から独立して存在するものではない。これらの解釈が、いったいどのような意味合いを歌詞に与えるのか問わなければ、解釈としては片手落ちになってしまうはずだ。

この短い覚え書きでは費やせる紙幅もないので、ごく簡単につぎのことを指摘することから始めたい。それはこのアイルという楽曲が、「伊吹翼」という名を持つアイドルを歌い手とし、あまつさえ「翼」を意味するラテン語と語源的に近しいタイトルを持つにもかかわらず、その内容は大空への飛翔のイメージからまったくかけ離れているということだ。
この歌詞は端的にいって泥臭い。そのことはまさに次の歌詞に現われている。


行く手阻む山の中を
くり抜いて向こう側へ
数秒間だけ見えた海の水平線キラリと光った

 

勝算なんてなくたって構わない
辿り着きたい場所へ行くため
坂道はちょっと邪魔だから
息を止めて海の底へも潜るんだ

 

ここでは、歌い手の「伊吹翼」は空を自由に駆ける「翼」を持っていない。
もし翼があるなら、空を飛べる。空を飛べるなら、山を越えることは容易だ。坂道など苦ではないだろう。トンネルを掘る必要も、海の底へ潜る必要もない。
海の底や地の底といった、飛翔とは対極のイメージが使われていることが示すように、「翼」を持たない、あるいは持っていても翼に頼ることのない存在が、海の底、地の底を這ってでも、目標に辿り着こうとする泥臭さがここにはある。


漫画ミリオンライブ第三巻特別版の表紙を思い返してほしい。そこで、翼にはたしかに羽が生えている。しかしその羽は本物の羽ではない。あくまで壁にかかれたペイントとしての羽だったことを。それは、天才肌の伊吹翼を描く際に、常人には持てない羽を持ち、楽々と困難を越えていくような「お気楽な存在」としてではなく、地中や海中を行くことさえ辞さないような「ひたむきで泥臭い存在」として描きたいという意志の現れではなかっただろうか。
おそらく、ここではじめて、アイルというタイトルは生きてくる。それは現実には「翼」(aisle / aile (aisle) / ala ) を持たない、ふつうの人間である、アイドル伊吹翼が、「道なき道」(aisle) を作って先に進んでいこうと必死に努力する姿を象徴するものとしてあらわれるのだ。特別版の表紙が示すように、アイドル翼が持つ本当の「翼」は、空を気軽に跳び回ることが出来るような翼ではなく、地の底でも海の底でもくり抜いて進んでいくような、この泥臭くも力強い意志 (I'll)のうちにあるのではないだろうか。

*1:ちなみに現代フランス語で翼を意味するaileはカタカナ表記ではエルとなるが、発音の規則を知らない場合、作詞者がこれをアイルと読んでしまった可能性もある。

夢と現実の交わらない交差点:ピチカート・ファイヴ『東京は夜の七時』をめぐる覚え書き

いくつかの前置き 


ピチカート・ファイヴ (PIZZICATO FIVE)の「東京は夜の七時」は、その軽妙で「キャッチー」なメロディとは裏腹に、どこかとらえどころがない歌詞で聴き手に不思議な印象を残す楽曲だ。


こういうとらえどころがない、難解といわれる歌詞を詳細に読み解くことは、楽しい作業に違いない。音楽を聴きながら歌詞カードを見て、ふとなぞめいた言葉に行き当たり、考えが動き出すという経験をしたひとはおそらく少なくないだろう。
ただし、こういった解釈はいつもひとつの「正解」に行き着くとは限らない。それどころか歌の解釈はしばしば開かれたものでありうる。それは陳腐だけれども自明の条件だといえる。
ここではあえて、「正解」を探すことをいったん括弧に括ってみよう。かわりに、歌を聴いたときに聴き手のうちに生まれる違和感が、いったいどのような理由から生まれてくるのか、いわばぼくが感じたこの曲の「とらえどころのなさ」の原因を、なるべく歌詞に即して言葉にしてみたい。

 

本文


「ピチカート・ファイヴの『東京は夜の七時』は、その軽妙で『キャッチー』なメロディとは裏腹に、どこかとらえどころがない歌詞で聴き手に不思議な印象を残す」とさきに書いた。
このとらえどころのなさは、歌詞カードを読んでみるまではひょっとすると自明ではないかもしれない。ところが、じっさいに歌詞を追ってみると、すでに歌い出しの第一聯から聴き手を戸惑わせるような仕掛けがなされていることに気付くだろう。

ぼんやりTVを観てたら
おかしな夢を見ていた
気がついて時計を見ると
トーキョーは夜の七時

 

「ぼんやりTVを観てたら/おかしな夢を見ていた」という一文に注目しよう。「おかしな夢」と書かれれば、いったいどんな夢だったのか知りたくなるのが人の性というものだ。当然、続く箇所に聴き手はその説明を期待する。ところが、直後には「気が付いて時計を見ると トーキョーは夜の七時」という一文が続くことになる。この「気がついて」の箇所は、前後の文脈からすれば「夢から醒めて」という意味にとることが「とりあえずは」可能であろう。したがって「トーキョーは夜の七時」というのは現実の「東京」の「現在時」を意味する、というふうにふつうは理解されるはずだ。


このフレーズ(「トーキョーは夜の七時」)は、このあともリフレインとして何度も繰り返されることから、第二聯以降の箇所は、「いっけん」 寝坊した「私」が「今日も 少し / 遅刻」しながら「タクシー」に乗って、待ちあわせ場所に急いで向かっているという「現実」の光景を、「時系列に即して」、うたっているように思える。

 

だが、その解釈だと、「おかしな夢」は第一聯に現れたきり、ほとんどなんの説明もされないままということになってしまう。まったく説明がないというのは、どこか不自然に思われる。

そもそも第二聯以降に、「おかしな夢」の報告が続くという読みの可能性を排除する理由は何処にあるのだろうか ? そんな理由はどこにも存在しない。「おかしな夢を見ていた」の続きがすべて夢の話である可能性すらある。実際に、続く歌詞をよく読めば、このような可能性が排除しきれないことを示すいくつかの不可解な細部が書き込まれていることに気付くだろう。

たとえば、

第五聯と第七聯では、待ち合わせ場所へ急いで「タクシー」で向かっているわたしの姿が描かれているが、

ぼんやり風に吹かれた
タクシーの窓を開けて
あなたに逢いに急ぐの
トーキョーは夜の七時

 

交差点で信号待ち
あなたはいつも優しい
今日も 少し
遅刻してる
早くあなたに逢いたい
早くあなたに逢いたい



この第五聯と第七聯のあいだには、

留守番電話が
突然ひとりで廻り始める
ひと晩中 喋り続ける
トーキョーの夜はフシギ


という聯が挟みこまれている。この時代、携帯電話が普及していないとするならば、留守番電話が「ひと晩中 喋り続ける」のを聴くために、「私」は家に留まっていなければいけないはずだ。よしんば携帯電話があったとしても留守番電話が「ひと晩中 喋り続ける」の聴いているというのは「夜の七時」にあなたに逢いにいこうとしているわたしの行動とは矛盾する。

したがって、第五聯=第七聯と、第六聯は、どちらか、あるいは双方が、夢のなかの出来事であると考えるのが自然である。「トーキョーの夜は七時」と韻を踏んだ「トーキョーの夜はフシギ」という歌詞や、状況の不自然さから、第六聯を夢のなかの出来事と考えることは不可能では無い。反対に、第五聯=第七聯は現実のことであり得るだろう。だが、仮に第六聯が夢で、第五聯=第七聯が現実だと特定出来たとしても、こうして「現実」の出来事のあいだに「夢」の出来事が挟み込まれることで、「夢」と「現実」の境界に一種のゆらぎが生じていることは否定出来ない。


このような印象をさらに強めるのは、第三聯と第九聯のあいだの奇妙なねじれである。

待ち合わせたレストランは
もうつぶれてなかった
お腹が空いて
死にそうなの
早くあなたに逢いたい
早くあなたに逢いたい

 

世界中でたったひとり
私を愛してくれる?
待ち合わせのレストランは
もうつぶれてなかった
バラの花を抱えたまま
あなたはひとり待ってる
夢で見たのと同じバラ
早くあなたに逢いたい
早くあなたに逢いたい
Yeah Yeah Yeah Fu



ここでは「待ち合わせ」先のレストランがもうつぶれてなかった、という同じ事柄がうたわれているように「一見」 読める。


ところがよく読むと、ふたつの歌詞の示す状況はいくぶん異なっている。


まず第三聯をみてみよう。「待ち合わせたレストランは / もうつぶれてなかった / お腹が空いて / 死にそうなの / 早くあなたに逢いたい」。この歌詞からなにが読み取れるだろうか。それは待ち合わせのレストランに行ったものの、レストランはもうすでにつぶれてしまっていて、あなたが「遅れて」やってくるまでひとりひもじい思いをしながら待ちぼうけをくらう「私」の姿である。

それとは反対に第九聯では次のようになっている。「待ち合わせのレストランは / もうつぶれてなかった / バラの花を抱えたまま / あなたはひとり待ってる / 夢で見たのと同じバラ」。こちらでは待っているのは、「私」ではなく「あなた」となっていることに気付かれただろうか。

第三聯と、第九聯とでは、待ち合わせのレストランがつぶれてしまったという同じ事柄を歌われているように見えて、じつは描かれている状況はあべこべなのだ。

さらによく読んでみると、第三聯では「待ち合わせた」と過去形になっているのに対し、第九聯では「待ち合わせの」という微妙な変更が加えられていることにも気付く。
もちろんこれだけではなんともいえないが、このふたつの聯がおなじ時系列、あるいはおなじ現実世界に位置しているとはにわかに考えがたい。

ひょっとするとどちらかが夢なのだろうか?じっさい「バラの花を抱えたまま / あなたはひとり待ってる / 夢で見たのと同じバラ」という文章は「おかしな夢」のなかで「私」が同種の光景を見ていた可能性を想起させる。「私」がお腹をすかせて待ちぼうけしている第三聯が「夢」の出来事で、反対に第九聯で「あなた」が「ひとり待っている」というのが「現実」の事柄であるという読みはとうぜん可能だろう。ただしそれが「正解」だという保証もまたどこにもない。なぜならそのあとに続くのは「早くあなたに逢いたい」という「私」の願望であって、「あなたに逢えた」という事実ではないからだ。

こうして解釈は宙をさまよう。

ここではこういった複数の解釈の可能性についてひとつの答えを出すことは慎もう。
それよりも、こういう矛盾を抱え、時系列も曖昧な歌がいっけんふつうのラブソングに聞こえるのはどうしてなのか、ということを問うほうがおそらくは面白い。それはおそらく「東京は夜の七時」というタイトルそのものに理由があると思う。
このタイトルは、その表記を「トーキョーは夜の七時」と変えて曲中何度も反復されているが、「トーキョー」で「夜の七時」に「早くあなたに逢いたい」と「私」が思っているというリフレインこそが、この曲にひとつの意味の統一を与えていることは疑えないだろう。この歌は、誰が読んでも「待ち合わせ」の歌であることは明白だ。

 

だがそれ以上に重要なことは、この歌が「待ち合わせ」の歌であると同時に「すれ違い」の歌でもあるということだろう。じっさい、この歌において「ずれ」はもっとも重要なモチーフだ。「遅刻」や待ち合わせ場所がすでになくなっていることが示すように「あなた」と「私」、あるいは「夢」と「現実」は結びつくようでいて、けして重なり合わない。それは、歌詞とそこから読み取れる無数の解釈がけしてぴたりとは重なり合わないということにも現れている。「トーキョー」と「東京」という表記のズレは、あたかもこのずれを象徴しているかのようだ。

「夜の七時」というのはしたがって、互いに矛盾する「夢」と「現実」が矛盾したまま結びつくような特別な瞬間であり、ひょっとすると同じ世界、同じ時間を生きていないかもしれない「あなた」と「私」がけっして交わらない奇妙な待ち合わせをしている時刻なのだ、そう考えてみるとすこし面白くないだろうか。

ピチカート・ファイヴが歌う「トーキョー」という「嘘みたいに輝く街」は「夢」と「現実」が、その境界をかぎりなく曖昧にしながら、すれ違い続ける、そんな街なのかもしれない。

 

やさしい隔たり:GOING UNDER GROUNDの楽曲「ランブル」の歌詞についての覚え書き

邦楽歌詞



GOING UNDER GROUNDの楽曲「ランブル」は、ヴォーカルの甘い歌声とメロディのせつなさで多くの人の心を掴んでいるけれども、はじめてこの歌を聴いたとき、わたし自身は歌詞のなかのある、ある一節にとらわれた事を覚えている。

摩天楼の光り 少し慣れた街で はかない僕達は
風になったつもり 雨になったつもり 優しい口笛と憧れ


この「風になったつもり、雨になったつもり」という一文がなぜだかわたしはとても好きだった。
その理由はおそらくすこし考えればだれでも思いつくものだ。「風になったつもり 雨になったつもり」と歌い手の「僕」が書き記すとき、そこには「風になったつもり 雨になったつもり」の「はかない僕達」を、まるで小さな生き物でも見るかのように外側から見つめている「僕」がいるだろう。彼は、自由になったつもりではしゃいでいる「僕と君」のたわいもなさを、完全に突き放すことなく、かといって安易な感傷に溺れるでもなく淡々と書いている。ちょうどそのことを示すかのように「優しい口笛と憧れ」という語句は、小さいものが懸命に「憧れ」へ向かっていこうとする姿への慈しみのある視線を感じさせる。
わたしが「ランブル」の歌詞で好きだったのは、具体的な意味というよりは雰囲気なのだけれども、その雰囲気のよってきたるところは、きっとこのような「僕」の視線のうちにある。


綺麗な水を探してる魚 あれはいつかの僕と君だよ
いつもの夏に放り出されて 同じ素振りで笑ってみるよ

なまぬるい都会を君と泳いだ蝉時雨
効かないおまじない そっと胸に隠し持ちながら


「ランブル」では、都会のビルの合間を縫って走るかつての自分たちは、水槽や池のなかを泳ぐ小さな二匹の魚に喩えられる。ポップスにしろ何にしろ過去の自分を回想する歌はおおいけれども、まるでミニチュアを覗き込むような視点で回想を表現するところにこの歌のひとつのうまさがあるといえるだろう。

この視点は感情を挟まない冷徹な客観視とはすこし違っている。「効かないおまじない そっと胸に隠し持ちながら」という歌詞にも現れているように、ここでもまた、「僕達」のたわいもなさに対する一種の愛着の念が書き込まれているからだ。


ここに明白にあらわれているように、「僕」は、都会のなかで懸命に生きている自分たちがいかに「はかない」ものであるかを知っている。けれども、同時にその懸命さをいとおしく思っているのだ。

それは「いつかは僕達も/離ればなれになって 変わり果ててしまう だから泳ぐんだよ」という歌詞からもはっきりと分かる。流れ行く「時」の儚さがかつての「僕達」とそれを回顧し俯瞰する歌い手の「僕」の間に横たわっている。

にもかかわらず、いや「だから」こそ「泳ぐんだよ」という逆接を孕んだ順接は、たわいもなさや儚さを自覚しながらもそれを嗤うような冷笑に陥る事なく生きていこうという現在形の懸命さの表明として響くだろう。それは、「僕」の立場のアンビヴァレンツをよく示している。

いっぽうで「僕」は、かつての「僕と君」のたわいもない日々を外側から眺める観察者だ。けれども同時にそのたわいもない日々を今も生きているひとりの人間でもある。
この歌詞の叙情性を生み出しているのは、日々を生きる自分とそれを見つめる自分のあいだにある、このほんのわずかの隔たりなのだろう。

線分と時間:nano.RIPEの歌詞について

邦楽歌詞

nano.RIPEの歌詞にはほとんどいつも共通したひとつのテーマがあるように思う。それはひとつの線分で結ばれた過去、現在、未来を旅するイメージだ。もっとも分かりやすいのが、おそらく、ボーカルのきみコが提供した、ミリオンライブの楽曲、「プラリネ」だろう。

今をゼロとしてどちらがプラスになるのでしょう?
わからない だけど行かなくちゃ 動けないならついておいでよ

後戻りできないくらい遠くまで来たんだ もう
あなたからもらったなにもかも道しるべにしてきたよ


彼女が作詞した他の歌を知っている者からすれば、これは単にゲームのキャラクターの心情表現であるだけでなく、きみコの歌詞の世界にとりついて離れないイメージのように思える。
それはツマビクヒトリの次のような歌詞をみれば一目瞭然だろう。

[...]

気が付けば遥か遠いところまできてしまった
たったヒトリで

ざわめくかりそめのココロその裏で たなびく過去 今 未来 付かず離れず
揺らめくキオクを連れ未踏の世界へ

 

時間の旅というテーマは、タキオンのつぎのような歌詞においても姿を見せるだろう。

ほんの少し近づいてまた遠ざかった 瞬く間に遥か先へ いや過去へ
ぼくが今向いているのは未来だっけ スピードなら光くらいザラに出るよ

 
このように、彼女の歌詞の世界では、過去と現在、未来はひとつにつながった一本の線をなし、そのなかで旅をすることが歌の叙情の核となっている。

 この時間のイメージはたぶんに抽象的だ。人間はかならずしも過去、現在、未来をひとつの線分のようには生きていない。ハローできみコ自身が歌うように、「まっすぐっていうのは自然ではあり得ない」。
ひとはしばしば同じ過ちを繰り返すし、そもそも、すべての過去がひとつの未来をめがけて一本に伸びているかどうかは、未来までの道のりをすべて辿りきらなければ、はっきりとはいえないことだ。行き止まりも引き返すこともなくまっすぐ伸びていく過去、現在、未来というイメージは、だから、彼女自身の実感というよりはむしろ、その願望に属する事柄といえる。
そのような願望を抱くのは、逆説的にも自分の過去と現在が、ひとつの目的を目指しているということを信じられない人間のように思える。
彼女の歌は、結局のところ、次のような不安に抗して歌われているのだ。

明日が消えてしまうかも すべて消えてしまうかも
ぼくがココに居たこともなかったことになるかもしれない

[...]

離した指の行方は?
解いた糸は切れてしまう?
破った誓いは塵になる?

 

つぎつぎと流れ去っていき、流れる傍から掻き消えていく記憶、どこへ向かうかも分からない時間の奔流。彼女の歌は、繰り返される忘却に抗して、過去と現在、そして未来を数珠のように繋ぎ止めようとする。

時間が後ろへ流されてく 手を振る間もなく流されてく
あの子の匂いが薄れてゆく 赤い目をこすった まだ眠りたくない

夢を見るたびオトナになる 大事なものから零れてくの?

もしも明日目が覚める頃すべて忘れてしまうとしても
爪で掻いた傷跡もいつかは消えてしまうとしても

ぼくの細胞のヒトツがずっと覚えてるから (「細胞キオク」)

 

今手にしている感情さえも明日にはもう頼りないものだ 
そんな当たり前に染まれなくて
 
流れる景色に融け消えた日々に 遺せた何かはあるのかな
[...](「フラッシュキーパー」)

 


離したそばから繋いでしまえ あたしの中だけでいいから
(「パラレルワールド」)

 

彼女の歌詞のなかに頻出する「記憶」のテーマはすべてこのような彼女の未来=時間への不安と結びついている。

この不安は、今の自分を捨て去って新しい未来へと跳躍したいという、もうひとつの願望とうらはらの関係にある。じっさい、彼女は、過去のどんな些細な瞬間も捨てたくないと思いながら、しばしば現在の自分であり続けることに苦痛すら感じているように見える。

堰を切ったノドから手が出るほど欲しくなったんだ
ぼくじゃない別のだれか
夢と希望 他になにが要ると思えた頃のぼくは今いずこへ (スノードロップ)

 

もがいたって足掻いたって沈んでゆくばかりだ
なんとなくじゃ変われないって痛いほどわかってるはずなのに(セラトナ)

 

空になりたいな くだらないぼくを捨て
きみになりたいな その目で空を見てみたい (絶対値)

 
結局、彼女のなかにある葛藤は、彼女自身が「痕形」と「ツマビクヒトリ」ではっきりとつぎのように歌っている状態以外の何ものでもないだろう。

そんでぼくはこんなにも未来を欲しがるくせにさ
まだぼくはこんなにも過去にしがみついてんだろう (「痕形」)

 

変わらないもの探しては変わりたい僕に惑うよ (「ツマビクヒトリ」)

 
ひとつの線分で結ばれた過去、現在、未来という時間のイメージは、このように持続とゼロからの開始というふたつの願望の間で揺らぐ彼女にとっては、アンビヴァレントなモチーフとなるだろう。

この葛藤の解決を詳しく追うことはできないが、彼女の歌詞を読めば、彼女が出した答えを推測することはできる。

 

行こう せーので飛び越えよう 約束なんて忘れてしまおう
今日が昨日に変わるたびにぼくら新しくなれるから
利き足が宙に浮いたらまたゼロになる

明けない夜はないというけれど明けてほしくない夜を知らないの?

始まれば終わることばかり それなら始まりを繰り返そう
何万回と越えた夜はつまりはそういうことでしょう?

今日が昨日に変わるときに繋ぐのは指ではないと知れば
どんな夜もぼくらを離せないから見えない線をイメージして
せーので今飛び越えよう

(「日付変更線」)

 

過去が失われてゆくものだとしても、絶えざる開始=跳躍の積み重ねが生み出すひとつの持続があるのだとおそらく彼女は信じているのだ。だからこそ彼女は歌い続けることができる、まるで昨日などなかったように、前だけを向いて。その後にはひとつの道が出来るだろう。

 

あの夏の「約束」:名犬ラッシーED「少年の丘」について

「少年の丘」


世界名作劇場の名犬ラッシーのエンディングテーマ



『名犬ラッシー』は思い入れのある作品だ。小さい頃、いくつかのテレヴィシリーズをきっかけに、原作小説を読んで以来、ぼくのなかからその名前が消え去ったことはない。
このテレヴィアニメシリーズも、そんな作品のひとつだが、おおかたの内容は残念ながら忘れてしまった。
だが、オープニングとエンディングの主題歌だけはいまでも鮮明に記憶に残っている。
なぜそれほどまでに印象に残っているのかというと、おそらく、郷愁を掻き立てるメロディと歌詞の組み合わせが、ぼくのなかで「少年時代」のひとつのイメージを形作っているためだろう。
この「少年時代」という言葉の含意をおおげさに述べるなら、幼年期の無垢から青年期の自意識のあいだに開かれた過渡的な期間、いくぶんヒロイックで、あらゆる期待に開かれながらも、いまだそれを成し遂げる力を持たず、かといって青年期の苦渋にも浸されていない、純粋な希望に満ちた待機の時間だということができる。
このような典型的な「少年」像が、ぼくや他の誰かの人生の現実に即したものかどうかはわからない。ただ、アニメ『名犬ラッシー』の主題歌、とりわけそのエンディングテーマ「少年の丘」は、そのような「少年時代」の幻像をぼくらの"回顧的な"眼差しのまえに描き出しているように思うのだ。
このような印象はたんなる思いなしとはいえない。じっさい、大人になってから見返すと、楽曲「少年の丘」自体が、「子供」の視点によって書かれているわけではないことに気づくだろう。
冒頭部を引いてみよう。


黄昏には君と
丘の上 駆け上り
遠い空を見てた
少年のあの頃 woo

ポケットから落ちた
キャンディと時の砂
大人になるための
旅は始まってた

 


「少年のあの頃」という表現から、ここでは、少年時代は、現在時として語られるのではなく、大人になった「僕」の回顧の対象として綴られているということがわかるだろう。
誰の目にも明らかなように、楽曲「少年の丘」においては、このような「歌」の「現在」と「過去(少年時代)」の対照は、「丘」という空間的なモティーフに仮託されて表現されている。

燃え上がる 夕陽の彼方
まだ出逢えない 人や街が
きっと待ってる
微笑んで 約束したね
あの丘を越え いつか夢を
探しに行こうと

 
ここで、まず目につくのは、垂直方向に伸びる丘がいわば、「僕」と「君」の生まれ故郷を空間的に限定する「境界」として機能していることだ。この歌の肝は、「約束したね」という過去形が十二分に語っているように、大人になった「僕」がすでにこの「境界」を越えて、「丘の向こう」の世界にいるという点にある。
こうして、丘は、たんに空間的なばかりではなく、「僕」の「過去(少年時代)」と「現在」を隔てる時間的な「敷居」の役割も果たすことになるのだ。

このような「時間性」と「空間性」の同一化という修辞は、「大人になるための旅」という表現にすでに予告されているばかりか、丘が一貫して、「黄昏」、「夕陽の彼方」、「未来の彼方」、「流れ星」という時間的推移を示す表現と結びつけられているところに明白に現れているだろう。

 

「丘」と「少年時代」、時間と空間はひとつに結びつき、同じ回顧の対象として描かれる。

子供向けのテレヴィ番組で、あえてこのような「少年時代」への「回顧」を歌詞に込めた「少年の丘」の狙いは明らかだ。


それは、少年少女時代にこの曲を聴いたひとたちが、大人になってあらためてこの曲を聞き返したとき、はじめて意味をなす狙いだ。すなわち、終わることのない「夏の日」、「思い出の丘」、幻想の少年時代のイメージを、大人になった子供達に贈ること。
ここにおそらく、いまでもぼくがこの歌を懐かしく思い出す理由の一端があるように思う。

果てしない 未来の彼方
もし僕達が 遠い場所で
暮らすとしても
永遠を 約束したね
あの夏の日は 今も終わることがない

 

ぼくにとっては、そしてそれはこの歌を覚えている多くの視聴者にとってもおなじだろうが、この楽曲自体が、あの夏の日にとり交わされた「永遠の約束」なのだ。

紫陽花の微笑:高浜寛、フレデリック・ボワレ著『まり子パラード』感想

仏語版『まり子パラード』

あらすじ

写真を元に絵を描くフランス人の漫画家と、日本人のまり子はすでに数年来、作家とモデルという関係を続けている。『まり子パラード』は江ノ島でのふたりの淡々とした取材紀行を背景に、芸術の勉強を続けるために留学を決意したまり子が漫画家に別れを告げ、去っていくまでを描く。この作品は漫画家フレデリック・ボワレとそのモデルをつとめる日本人女性の関係に取材しつつ、高浜が漫画を描き、そこにボワレが写真から生み出した「まり子」のデッサンを挿入し、纏め上げるという形で作品化されている。

この作品の日本での公刊のあと、親類や友達は、みな、さまざまな反応を返してくれました。そんな彼らが言ったことのなかで、ただひとつだけ、同じことがありました。
「ここには筋と言っていい筋は無い。時間だけが流れる。ただ頁を閉じたとき、心にひとつの重石が残る。ほとんど、苦しみといっても良いような」(高浜寛、仏語版序文)



①時間と情動

筋らしい筋が無い漫画では、画面と台詞の恊働によって生み出されるコマの継起が、登場人物の心理の微細な動きを表現し、ただ淡々と流れ行く時間を現出させる。
その空白にわれわれは、一種の情緒を読み込もうとする。
そこでは、心理は、分析や叙述の対象ではないことに注意しよう。たとえばこの作品、『まり子パラード』において、まり子に別れを決意させた動機、その芯にある部分を掴むことは難しい。特別不幸でもなく、男を嫌っているわけでもない、画面からは焦燥などは決して伝わっては来ないのに、彼女はいったいなにを思い出発を決意したのか。そのことを考えると、宙をつかむ思いがする。のちの突堤の場面で、彼女自身から、留学の計画があかされるが、それは物語のなかでひとを突き動かすあの明白な動機とはどこかかけ離れ、よそよそしい曖昧な輪郭を保っているように思われる。

おそらく、この作品に作者が序文で引いた「苦しみ」があるとすれば、それはまさにこの点においてではなかろうか。
漫画家は突然訪れる別れの理由をはっきりと理解することは無い。おそらくは、まり子自身もまた、本当の理由は知らないのだ。ただ別れの予感だけがある。無慈悲という形容でさえまだ人間的な暖かみを保っており、それゆえに不適当であると言いたくなるほどに、なんの理由も目的も無くただ過ぎ去っていく時間の持続、それこそがまり子に出発を決意させたものだ。



②微笑み

漫画を通じた、このような時間の体験こそが、「苦しみ」と言ってもよいような「ひとつの重石」を残す。

そのいっぽうで、ふたりの別れを語るこの突堤の場面が、ときならぬフナムシの攻勢によって中断されるように、この作品には、そのような不安と苦しみに陳腐に淫することを妨げる軽さや微笑があることも忘れてはならない。

だが、もし分析を一歩具体的に進めるならば、微笑とは時間の苦しみをまえにした表情でなくてなんだろうか。

この作品において、しばしば「まり子」はいたずらっぽく微笑んでいるが、それはたんに絵柄の問題ではなく、厳密に作品の主題である。たとえば、43頁からひたすら微笑みとその変奏ばかりが画面を埋め尽くすのを見てみよう。「私は意味も無くわらうのよ」というまり子の台詞からはじまって、ボワレのデッサンに切り替わり、まり子の口元とともに、Front(前線)=歯の防衛を謳う口内衛生用品の広告の人物、アンネフランク、エノラゲイのパイロット(?)、ベトナムの戦災児(?)などみな一様に笑みを浮かべた写真の口元がつぎつぎとアップに映し出され、それがまり子の一文字に閉じた口を隠す扇に描かれた微笑みのような弧へと至る。これらの上弦の半弧のモティーフは、戦いを模した獅子舞の螺旋運動をつうじて、船の軌跡へと姿を変え、読者はボワレのデッサンから高浜の漫画へ戻るだろう。微笑みのモティーフは、戦争というもうひとつの主題と結びつきつつ、まるでその無償性を誇示するかのように、画面に溢れている。

 

重要なのは、このような微笑みの主題が、その儚さ、意味をはぎ取られた他愛なさによって、時間と別離、そして苦しみに結びついていることだ。そのことは64頁を見ればあきらかだろう。まり子の笑顔を画面一杯に映し出しながら、つぎのような漫画家の独白が入る

 「いつか、きっと彼女は消えてしまう。たぶんこんなふうに笑いながら」

 

『まり子パラード』においては、微笑みと別離、苦しみはしたがって境を接した感情である。それは、94頁、漫画家とまり子の性行為がほとんど写真に近いかたちで、印刷されている場面にもみとめられるだろう。そこでは、「好き」と微笑む「まり子」の写真の横に、漫画家の「僕も」という台詞が、吹き出しとともに挿入されている。次の頁に進むと、物語はふたたび高浜の絵に戻る。そして、性行為の後のふたりの会話が続けられるのだが、そこで、写真(?)とまったくおなじやりとりが、ただし、今度は、漫画家とまり子の台詞を反転させて繰り返される。そのとき写真(?)のなかで笑っていたまり子は、今度は泣いているのだ。

微笑みと苦しみ、その背中合わせの同居、『まり子パラード』の主題はほとんど、これに尽きているのかもしれない。 

 

③デッサン

ここで、漫画家が絵を描くために写真を撮っているという事実はある種の重みを持つ。
写真は、たんなるデッサンの素材である以上に、このような時間から移ろいやすい微笑みの一瞬を切り出し、不動化してしまうために必要とされるからだ。
冒頭ですでに、漫画家の仕事が、作品というよりは、まり子と漫画家ふたりがともに生きた時間の記録になっていることが示唆されているが、このような愛の永続への願いは、最後の場面になって完璧に形をとる。その場面を見てみよう。


まり子はすでに旅だってしまった。船の軌跡が半円を描く。漫画家の歩く道も弧を描き、それがアップに映し出された紫陽花の描き出す半円に至る。漫画家は居なくなってしまった「まり子」を砂の上に描く。そしてその隣に寝そべって写真を撮ろうとするとき、その歩みは弧を描き、描かれたまり子は微笑んでいる。シャッターが切られる…

 

『まり子パラード』の表紙はこうしてとられた写真の一枚である。いまや作品は微笑みの移ろいやすさと写真=デッサンに刻印された不動の瞬間というふたつの時間の間で宙づりになる。
作品のキーをなす紫陽花。「愛の永続」と「変わりやすい心」、洋の東西を隔て、ふたつの花言葉を持った紫陽花は、「デッサン」と「微笑み」というふたつの時間の隠喩なのかもしれない。