夢と灯火

身辺雑記, etc. 主に気に入った音楽や漫画についての感想

Lamp『さち子』の歌詞とMVの世界:丹念に束ねられ、重ねられたイメージ

一見なんとも甘いメロディの下に隠れた複雑な味わい。技巧を感じさせないほどの洗練、Lampの楽曲を要約するのならば、おそらくこういった言葉がふさわしいのだろう。その楽曲を彩る歌詞の世界、そしてMVの世界に視線を移せば、今度はその文学性が目をひく。
例えば、「さち子」は、歌詞を見ればわかるようにアンデルセンの『人魚姫』がその題材となっている。
 
夏の終りの水平線と甘い潮風 
髪を短く切ったばかりの肩を通りすぎた
 
海辺を走る貨物列車が運んで来たメランコリー
貝殻の中隠した涙とくちづけのプロローグ 
海よりも青いひと夏の…
 
今、カーステレオから流れ出すメモリーズ 
波の音 君のうたう声
 
夏の終りの誰そ彼時がとても淋しいと
風に飛んだ麦藁帽子の影を追いかけた
 
浜辺を走る赤いペディキュア さざ波を編んでいく
忘れかけていた人魚姫のエピローグ
海よりも深いひと夏の...

 

もちろんこの歌には、童話のようなはっきりとした物語が描かれているわけではない。確かなのは、語り手が、かつて付き合っていた女性との一夏の思い出を人魚姫のモティーフに仮託して回想しているということだけだ。童話のあらすじは、歌詞とはごくわずかにしか対応していない。それは、物語として歌詞に表現される代わりに、いくつかのモティーフを結びつける見えない求心力となることで、統一された雰囲気や感情を生み出しているというのが正確だろう。
 
引用の箇所を見てみよう。人魚姫がその声と引き換えに、地上で歩くための足を手に入れたことはよく知られている。海辺の砂浜という舞台を背景に、自分がかつて付き合っていた女性の赤いペディキュアをクローズアップする視線、波の音と恋人のうたう声を結びつける聴覚は、こうして現実の風景とおとぎ話の間に、一致しているような一致していないような、微妙な照応を形作る。
 
童話では、王子の愛を得られなかった人魚姫はまじない通りに海の泡となってしまう。ただし、彼女はそのまま消えてしまう代わりに風の精に転生するのだが。私の記憶が正しければ、確か童話は、彼女が王子とその恋人の間をそっと通り過ぎ接吻するというシーンで閉じられていた。だとすれば、
 
夏の終りの水平線と甘い潮風 
髪を短く切ったばかりの肩を通りすぎた
 
という冒頭の一節、「風」に吹き飛ばされる「麦わら帽子」、そして、
 
いつかこんな風に終わることわかっていた
短い季節
泡の粒は海の底へ消えていった 

 

というふうに、泡となって消えていく二人の恋の結末は、まさしく童話のエピローグと呼応しているといえよう。
 
このような端正な歌詞の世界は、ちょうどMVの映像と結びつくことで一種の叙情を生み出す。
ここで映像の全てについて言葉を費やすことはできないけれども、MVが歌詞と同じように、物語の時系列的継起というよりも、関連するモティーフの取り合わせによって形作られていることの意味は指摘できる。
 
 
 
例えばこのMVには、少なくとも「都市の風景」と「海辺の風景」という二つの異なった風景が現れるのだが、ちょうどその切り替えを繋ぐのは、冒頭部、カフェに入ったヴォーカルの永井祐介扮する主人公が、コーヒーにミルクと砂糖を落としたあと、自らの眼に目薬をさすシーンである。
 
このシーンの合間には、コップの中の水に赤いインクが広がっていく映像や、榊原香保里扮する恋人役の女性がオブジェ「新宿の目」の前にたつシーンなどがフラッシュバックし、最後に焦点の合わないカメラで水槽の魚たちがぼんやりと映し出される。
これらのカット間に厳密な物語上のつながりはない。ただ、運動と形態の類似だけが、物語の代わりをする。赤いインクが水中に広がっていく有様は、コーヒーに広がっていくミルクの運動と結びつき、背景に映る海のイメージへと連想を拡張する一方、「新宿の目」が目薬をさした眼を想起させることで、その前に立つ赤い服の榊原香保里は、主人公の目に蘇ったかつての恋人の姿を表現するのである。最後に水槽の魚たちを通じて、景色は恋人と一夏を過ごした海辺へと至るだろう。こうして歌詞で歌われている出来事、一夏の恋の回想は、暗示的な形にとどまったまま見事に映像化されるのだ。
 
これだけでもなかなか見事な作りだが、このシーンは、MVのラストとうまく結びつく仕掛けになっている。ポストに手紙を出しに行く主人公を現在時で映しながら、海辺の風景を一種の回想シーンとして映し出していたカメラは、ここで再び冒頭のカフェのシーン、永井祐介扮する主人公がコーヒーに砂糖を落とすシーンに戻る。
この切り替えを繋ぐのも、また形態と運動の類似であることを見逃すものはいまい。ちょうどこのシーンの直前で、グラスに注がれたソーダ水にさくらんぼを落とすシーンが挿入されているからだ。このさくらんぼは、コーヒーに落とされる砂糖と形態的、運動的に同じものであることは誰の目にも明らかだ。
 
こうして、ソーダ水に落ちたさくらんぼのアップから、コーヒーに落ちた砂糖の運動にカットをつなぐことで、海辺の回想の風景から冒頭のカフェのシーンまで戻ってくるようにMVは作られている。現在の時間と回想の風景が物の形態や運動の類似を通じてまたしても交錯するのだ。そればかりではない。ソーダ水に落ちたさくらんぼが泡を立てるこのシーンは、海に身を投げて泡となる人魚姫のイメージを喚起することで、童話『人魚姫』のエピローグとも重なることだろう。ここに、一見バラバラのモティーフを、童話『人魚姫』をつうじてまとめ上げる「さち子」の世界は十全に映像化されているのだ。