夢と灯火

身辺雑記, etc. 主に気に入った音楽や漫画についての感想

–– 曖昧模糊として、鮮烈な –– :サニーデイ・サービスの歌詞(「セツナ」)についての覚書

サニーデイ・サービスの曲を最近よく聴いている。楽曲の素晴らしさは、門外漢の私などが言いたてるまでもない。今日ここで、私的なメモとして書き留めておきたいと思っているのは、サニーデイの歌詞の世界についてだ。
サニーデイの歌詞を読む・聴く人は、そこで「曖昧模糊とした鮮烈さ」とでもいうべき感覚を覚える。
サニーデイの歌詞は一見して曖昧だ。実際、一度歌詞に耳を傾ければ、そこで何が歌われているのか、必ずしも明瞭につかめるわけではないことに気づく。今回は、楽曲「セツナ」を例に取ろう。

 

夕暮れの街切り取ってピンクの呪文かける魔女たちの季節
ゆるやかな放物線描き空落下するパラシュートライダー
はじめっから汚れちまってる眠ることのない魂
また今日もいつものところで待ってるセツナの恋人

 

「魔女たち」といういささか文学的な非現実の闖入が示すように、これは謎めいた歌い出しと言っていいだろう。しかし同時に、ここで聴き手が戸惑うことはないというのもまた確かな事実なのだ。それは、「夕暮れの街」と「ピンクの呪文」という二つの表現によって、すでに全体の色調(トーン)が与えられているからだろう。

くわえて「ピンクの呪文かける魔女たちの季節」という箇所を注意深く読むならば、このピンクという色調が、「呪文」の効果としての"一時的なもの"であること、そしてこの一過性の呪文が、ある「季節」に結びついていることが容易に想像できる。


魔女たちの儚い「ピンクの呪文」、ここで咲き誇る桜を思い起こさないことは難しい。「今日もいつものところで待ってるセツナの恋人」とは、したがって不動のままに咲き誇り、やがて散っていく桜のことではないだろうか。「セツナ」の歌詞のうまさは、一切「桜」という言葉を用いることなく、夕暮れ時、一面に咲き誇る桜の光景を浮かび上がらせる(ポピュラーミュージックらしからぬ)この巧みな喚起力にある。

 

「ゆるやかな放物線描き空落下するパラシュートライダー」という箇所は、これと同じ意味で極めてサニーデイらしいフレーズだ。

この表現が、「ふたりでこの空を飛ぼう」と「きみ」に呼びかける「ぼく」を指しているのは確かだろう。だが、同時にこの箇所は、「きみ」–– すなわち「ゆるやかな放物線(を)描き」散っていく「桜」–– の花びらの運動を暗示してもいる。こうして「きみ」と「ぼく」は、深まってゆく夕暮れのなかを、二人して「ゆるやかな放物線(を)描き」ながら滑空していくのである。

サニーデイの歌詞においては、このように一つのイメージが、「名指されている事物」と「名指されていない事物」を同時に浮かび上がらせ、暗示的に結びつける。それは、輪郭の曖昧な言葉を通じて、かえって、一層鮮烈なイメージを呼び起こす「魔女たち」の「呪文」に他ならない。

 

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ちなみに、PVをよくみると、お花見をモティーフとした演出がなされている(ピンクの衣を纏った「刹那=桜」、他にも「手巻き寿司」のシーンや、宴会芸風の踊り、最後にゴミを捨てる三姉妹など)。

 


Sunny Day Service - セツナ【official video】