夢と灯火

身辺雑記, etc. 主に気に入った音楽や漫画についての感想

夢と現実の交わらない交差点:ピチカート・ファイヴ『東京は夜の七時』をめぐる覚え書き

いくつかの前置き 


ピチカート・ファイヴ (PIZZICATO FIVE)の「東京は夜の七時」は、その軽妙で「キャッチー」なメロディとは裏腹に、どこかとらえどころがない歌詞で聴き手に不思議な印象を残す楽曲だ。


こういうとらえどころがない、難解といわれる歌詞を詳細に読み解くことは、楽しい作業に違いない。音楽を聴きながら歌詞カードを見て、ふとなぞめいた言葉に行き当たり、考えが動き出すという経験をしたひとはおそらく少なくないだろう。
ただし、こういった解釈はいつもひとつの「正解」に行き着くとは限らない。それどころか歌の解釈はしばしば開かれたものでありうる。それは陳腐だけれども自明の条件だといえる。
ここではあえて、「正解」を探すことをいったん括弧に括ってみよう。かわりに、歌を聴いたときに聴き手のうちに生まれる違和感が、いったいどのような理由から生まれてくるのか、いわばぼくが感じたこの曲の「とらえどころのなさ」の原因を、なるべく歌詞に即して言葉にしてみたい。

 

本文


「ピチカート・ファイヴの『東京は夜の七時』は、その軽妙で『キャッチー』なメロディとは裏腹に、どこかとらえどころがない歌詞で聴き手に不思議な印象を残す」とさきに書いた。
このとらえどころのなさは、歌詞カードを読んでみるまではひょっとすると自明ではないかもしれない。ところが、じっさいに歌詞を追ってみると、すでに歌い出しの第一聯から聴き手を戸惑わせるような仕掛けがなされていることに気付くだろう。

ぼんやりTVを観てたら
おかしな夢を見ていた
気がついて時計を見ると
トーキョーは夜の七時

 

「ぼんやりTVを観てたら/おかしな夢を見ていた」という一文に注目しよう。「おかしな夢」と書かれれば、いったいどんな夢だったのか知りたくなるのが人の性というものだ。当然、続く箇所に聴き手はその説明を期待する。ところが、直後には「気が付いて時計を見ると トーキョーは夜の七時」という一文が続くことになる。この「気がついて」の箇所は、前後の文脈からすれば「夢から醒めて」という意味にとることが「とりあえずは」可能であろう。したがって「トーキョーは夜の七時」というのは現実の「東京」の「現在時」を意味する、というふうにふつうは理解されるはずだ。


このフレーズ(「トーキョーは夜の七時」)は、このあともリフレインとして何度も繰り返されることから、第二聯以降の箇所は、「いっけん」 寝坊した「私」が「今日も 少し / 遅刻」しながら「タクシー」に乗って、待ちあわせ場所に急いで向かっているという「現実」の光景を、「時系列に即して」、うたっているように思える。

 

だが、その解釈だと、「おかしな夢」は第一聯に現れたきり、ほとんどなんの説明もされないままということになってしまう。まったく説明がないというのは、どこか不自然に思われる。

そもそも第二聯以降に、「おかしな夢」の報告が続くという読みの可能性を排除する理由は何処にあるのだろうか ? そんな理由はどこにも存在しない。「おかしな夢を見ていた」の続きがすべて夢の話である可能性すらある。実際に、続く歌詞をよく読めば、このような可能性が排除しきれないことを示すいくつかの不可解な細部が書き込まれていることに気付くだろう。

たとえば、

第五聯と第七聯では、待ち合わせ場所へ急いで「タクシー」で向かっているわたしの姿が描かれているが、

ぼんやり風に吹かれた
タクシーの窓を開けて
あなたに逢いに急ぐの
トーキョーは夜の七時

 

交差点で信号待ち
あなたはいつも優しい
今日も 少し
遅刻してる
早くあなたに逢いたい
早くあなたに逢いたい



この第五聯と第七聯のあいだには、

留守番電話が
突然ひとりで廻り始める
ひと晩中 喋り続ける
トーキョーの夜はフシギ


という聯が挟みこまれている。この時代、携帯電話が普及していないとするならば、留守番電話が「ひと晩中 喋り続ける」のを聴くために、「私」は家に留まっていなければいけないはずだ。よしんば携帯電話があったとしても留守番電話が「ひと晩中 喋り続ける」の聴いているというのは「夜の七時」にあなたに逢いにいこうとしているわたしの行動とは矛盾する。

したがって、第五聯=第七聯と、第六聯は、どちらか、あるいは双方が、夢のなかの出来事であると考えるのが自然である。「トーキョーの夜は七時」と韻を踏んだ「トーキョーの夜はフシギ」という歌詞や、状況の不自然さから、第六聯を夢のなかの出来事と考えることは不可能では無い。反対に、第五聯=第七聯は現実のことであり得るだろう。だが、仮に第六聯が夢で、第五聯=第七聯が現実だと特定出来たとしても、こうして「現実」の出来事のあいだに「夢」の出来事が挟み込まれることで、「夢」と「現実」の境界に一種のゆらぎが生じていることは否定出来ない。


このような印象をさらに強めるのは、第三聯と第九聯のあいだの奇妙なねじれである。

待ち合わせたレストランは
もうつぶれてなかった
お腹が空いて
死にそうなの
早くあなたに逢いたい
早くあなたに逢いたい

 

世界中でたったひとり
私を愛してくれる?
待ち合わせのレストランは
もうつぶれてなかった
バラの花を抱えたまま
あなたはひとり待ってる
夢で見たのと同じバラ
早くあなたに逢いたい
早くあなたに逢いたい
Yeah Yeah Yeah Fu



ここでは「待ち合わせ」先のレストランがもうつぶれてなかった、という同じ事柄がうたわれているように「一見」 読める。


ところがよく読むと、ふたつの歌詞の示す状況はいくぶん異なっている。


まず第三聯をみてみよう。「待ち合わせたレストランは / もうつぶれてなかった / お腹が空いて / 死にそうなの / 早くあなたに逢いたい」。この歌詞からなにが読み取れるだろうか。それは待ち合わせのレストランに行ったものの、レストランはもうすでにつぶれてしまっていて、あなたが「遅れて」やってくるまでひとりひもじい思いをしながら待ちぼうけをくらう「私」の姿である。

それとは反対に第九聯では次のようになっている。「待ち合わせのレストランは / もうつぶれてなかった / バラの花を抱えたまま / あなたはひとり待ってる / 夢で見たのと同じバラ」。こちらでは待っているのは、「私」ではなく「あなた」となっていることに気付かれただろうか。

第三聯と、第九聯とでは、待ち合わせのレストランがつぶれてしまったという同じ事柄を歌われているように見えて、じつは描かれている状況はあべこべなのだ。

さらによく読んでみると、第三聯では「待ち合わせた」と過去形になっているのに対し、第九聯では「待ち合わせの」という微妙な変更が加えられていることにも気付く。
もちろんこれだけではなんともいえないが、このふたつの聯がおなじ時系列、あるいはおなじ現実世界に位置しているとはにわかに考えがたい。

ひょっとするとどちらかが夢なのだろうか?じっさい「バラの花を抱えたまま / あなたはひとり待ってる / 夢で見たのと同じバラ」という文章は「おかしな夢」のなかで「私」が同種の光景を見ていた可能性を想起させる。「私」がお腹をすかせて待ちぼうけしている第三聯が「夢」の出来事で、反対に第九聯で「あなた」が「ひとり待っている」というのが「現実」の事柄であるという読みはとうぜん可能だろう。ただしそれが「正解」だという保証もまたどこにもない。なぜならそのあとに続くのは「早くあなたに逢いたい」という「私」の願望であって、「あなたに逢えた」という事実ではないからだ。

こうして解釈は宙をさまよう。

ここではこういった複数の解釈の可能性についてひとつの答えを出すことは慎もう。
それよりも、こういう矛盾を抱え、時系列も曖昧な歌がいっけんふつうのラブソングに聞こえるのはどうしてなのか、ということを問うほうがおそらくは面白い。それはおそらく「東京は夜の七時」というタイトルそのものに理由があると思う。
このタイトルは、その表記を「トーキョーは夜の七時」と変えて曲中何度も反復されているが、「トーキョー」で「夜の七時」に「早くあなたに逢いたい」と「私」が思っているというリフレインこそが、この曲にひとつの意味の統一を与えていることは疑えないだろう。この歌は、誰が読んでも「待ち合わせ」の歌であることは明白だ。

 

だがそれ以上に重要なことは、この歌が「待ち合わせ」の歌であると同時に「すれ違い」の歌でもあるということだろう。じっさい、この歌において「ずれ」はもっとも重要なモチーフだ。「遅刻」や待ち合わせ場所がすでになくなっていることが示すように「あなた」と「私」、あるいは「夢」と「現実」は結びつくようでいて、けして重なり合わない。それは、歌詞とそこから読み取れる無数の解釈がけしてぴたりとは重なり合わないということにも現れている。「トーキョー」と「東京」という表記のズレは、あたかもこのずれを象徴しているかのようだ。

「夜の七時」というのはしたがって、互いに矛盾する「夢」と「現実」が矛盾したまま結びつくような特別な瞬間であり、ひょっとすると同じ世界、同じ時間を生きていないかもしれない「あなた」と「私」がけっして交わらない奇妙な待ち合わせをしている時刻なのだ、そう考えてみるとすこし面白くないだろうか。

ピチカート・ファイヴが歌う「トーキョー」という「嘘みたいに輝く街」は「夢」と「現実」が、その境界をかぎりなく曖昧にしながら、すれ違い続ける、そんな街なのかもしれない。