夢と灯火

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やさしい隔たり:GOING UNDER GROUNDの楽曲「ランブル」の歌詞についての覚え書き



GOING UNDER GROUNDの楽曲「ランブル」は、ヴォーカルの甘い歌声とメロディのせつなさで多くの人の心を掴んでいるけれども、はじめてこの歌を聴いたとき、わたし自身は歌詞のなかにある、ある一節にとらわれた事を覚えている。

摩天楼の光り 少し慣れた街で はかない僕達は
風になったつもり 雨になったつもり 優しい口笛と憧れ


この「風になったつもり、雨になったつもり」という一文がなぜだかわたしはとても好きだった。
その理由はおそらくすこし考えればだれでも思いつくものだ。「風になったつもり 雨になったつもり」と歌い手の「僕」が書き記すとき、そこには「風になったつもり 雨になったつもり」の「はかない僕達」を、まるで小さな生き物でも見るかのように外側から見つめている「僕」がいるだろう。彼は、自由になったつもりではしゃいでいる「僕と君」のたわいもなさを、完全に突き放すことなく、かといって安易な感傷に溺れるでもなく淡々と書いている。ちょうどそのことを示すかのように「優しい口笛と憧れ」という語句は、小さいものが懸命に「憧れ」へ向かっていこうとする姿への慈しみのある視線を感じさせる。
わたしが「ランブル」の歌詞で好きだったのは、具体的な意味というよりは雰囲気なのだけれども、その雰囲気のよってきたるところは、きっとこのような「僕」の視線のうちにある。


綺麗な水を探してる魚 あれはいつかの僕と君だよ
いつもの夏に放り出されて 同じ素振りで笑ってみるよ

なまぬるい都会を君と泳いだ蝉時雨
効かないおまじない そっと胸に隠し持ちながら


「ランブル」では、都会のビルの合間を縫って走るかつての自分たちは、水槽や池のなかを泳ぐ小さな二匹の魚に喩えられる。ポップスにしろ何にしろ過去の自分を回想する歌はおおいけれども、まるでミニチュアを覗き込むような視点で回想を表現するところにこの歌のひとつのうまさがあるといえるだろう。

この視点は感情を挟まない冷徹な客観視とはすこし違っている。「効かないおまじない そっと胸に隠し持ちながら」という歌詞にも現れているように、ここでもまた、「僕達」のたわいもなさに対する一種の愛着の念が書き込まれているからだ。


ここに明白にあらわれているように、「僕」は、都会のなかで懸命に生きている自分たちがいかに「はかない」ものであるかを知っている。けれども、同時にその懸命さをいとおしく思っているのだ。

それは「いつかは僕達も/離ればなれになって 変わり果ててしまう だから泳ぐんだよ」という歌詞からもはっきりと分かる。流れ行く「時」の儚さがかつての「僕達」とそれを回顧し俯瞰する歌い手の「僕」の間に横たわっている。

にもかかわらず、いや「だから」こそ「泳ぐんだよ」という逆接を孕んだ順接は、たわいもなさや儚さを自覚しながらもそれを嗤うような冷笑に陥る事なく君と生きていこうという現在形の懸命さの表明として響くだろう。それは、「僕」の立場のアンビヴァレンツをよく示している。

いっぽうで「僕」は、かつての「僕と君」のたわいもない日々を外側から眺める観察者だ。けれども同時にそのたわいもない日々を今も生きているひとりの人間でもある。
この歌詞の叙情性を生み出しているのは、日々を生きる自分とそれを見つめる自分のあいだにある、このほんのわずかの隔たりなのだろう。