夢と灯火

身辺雑記, etc. 主に気に入った音楽や漫画についての感想

あの夏の「約束」:名犬ラッシーED「少年の丘」について

「少年の丘」


世界名作劇場の名犬ラッシーのエンディングテーマ



『名犬ラッシー』は思い入れのある作品だ。小さい頃、いくつかのテレヴィシリーズをきっかけに、原作小説を読んで以来、ぼくのなかからその名前が消え去ったことはない。
このテレヴィアニメシリーズも、そんな作品のひとつだが、おおかたの内容は残念ながら忘れてしまった。
だが、オープニングとエンディングの主題歌だけはいまでも鮮明に記憶に残っている。
なぜそれほどまでに印象に残っているのかというと、おそらく、郷愁を掻き立てるメロディと歌詞の組み合わせが、ぼくのなかで「少年時代」のひとつのイメージを形作っているためだろう。
この「少年時代」という言葉の含意をおおげさに述べるなら、幼年期の無垢から青年期の自意識のあいだに開かれた過渡的な期間、いくぶんヒロイックで、あらゆる期待に開かれながらも、いまだそれを成し遂げる力を持たず、かといって青年期の苦渋にも浸されていない、純粋な希望に満ちた待機の時間だということができる。
このような典型的な「少年」像が、ぼくや他の誰かの人生の現実に即したものかどうかはわからない。ただ、アニメ『名犬ラッシー』の主題歌、とりわけそのエンディングテーマ「少年の丘」は、そのような「少年時代」の幻像をぼくらの"回顧的な"眼差しのまえに描き出しているように思うのだ。
このような印象はたんなる思いなしとはいえない。じっさい、大人になってから見返すと、楽曲「少年の丘」自体が、「子供」の視点によって書かれているわけではないことに気づくだろう。
冒頭部を引いてみよう。


黄昏には君と
丘の上 駆け上り
遠い空を見てた
少年のあの頃 woo

ポケットから落ちた
キャンディと時の砂
大人になるための
旅は始まってた

 


「少年のあの頃」という表現から、ここでは、少年時代は、現在時として語られるのではなく、大人になった「僕」の回顧の対象として綴られているということがわかるだろう。
誰の目にも明らかなように、楽曲「少年の丘」においては、このような「歌」の「現在」と「過去(少年時代)」の対照は、「丘」という空間的なモティーフに仮託されて表現されている。

燃え上がる 夕陽の彼方
まだ出逢えない 人や街が
きっと待ってる
微笑んで 約束したね
あの丘を越え いつか夢を
探しに行こうと

 
ここで、まず目につくのは、垂直方向に伸びる丘がいわば、「僕」と「君」の生まれ故郷を空間的に限定する「境界」として機能していることだ。この歌の肝は、「約束したね」という過去形が十二分に語っているように、大人になった「僕」がすでにこの「境界」を越えて、「丘の向こう」の世界にいるという点にある。
こうして、丘は、たんに空間的なばかりではなく、「僕」の「過去(少年時代)」と「現在」を隔てる時間的な「敷居」の役割も果たすことになるのだ。

このような「時間性」と「空間性」の同一化という修辞は、「大人になるための旅」という表現にすでに予告されているばかりか、丘が一貫して、「黄昏」、「夕陽の彼方」、「未来の彼方」、「流れ星」という時間的推移を示す表現と結びつけられているところに明白に現れているだろう。

 

「丘」と「少年時代」、時間と空間はひとつに結びつき、同じ回顧の対象として描かれる。

子供向けのテレヴィ番組で、あえてこのような「少年時代」への「回顧」を歌詞に込めた「少年の丘」の狙いは明らかだ。


それは、少年少女時代にこの曲を聴いたひとたちが、大人になってあらためてこの曲を聞き返したとき、はじめて意味をなす狙いだ。すなわち、終わることのない「夏の日」、「思い出の丘」、幻想の少年時代のイメージを、大人になった子供達に贈ること。
ここにおそらく、いまでもぼくがこの歌を懐かしく思い出す理由の一端があるように思う。

果てしない 未来の彼方
もし僕達が 遠い場所で
暮らすとしても
永遠を 約束したね
あの夏の日は 今も終わることがない

 

ぼくにとっては、そしてそれはこの歌を覚えている多くの視聴者にとってもおなじだろうが、この楽曲自体が、あの夏の日にとり交わされた「永遠の約束」なのだ。