夢と灯火

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冬の蛍:須藤まゆみの「蛍火」について

「蛍火」はデレマスの北条加蓮によるカヴァーを聞いて以来、大好きな曲のひとつなのだけれど、タイトルの「蛍火」という語にずっとひっかかりを覚えていた。

なるほど調べてみると、蛍火というのは俳句の季語のひとつで、蛍の光のことであるという。蛍は夏の風物詩であるからこの言葉はとうぜん夏の季語に当たる。ところが、歌詞に立ち戻ってみるとすぐに気づくように、うたわれる情景は冬の話なのだ。
冬の蛍といわれると、いったいどういうものなのかとふしぎに思わずにはいられない。

だが、これをたんに作詞者の短慮のせいにするのも、どうも釈然としない。作詞者の椎名豪さんによると、この詞を書いていたのは花火大会のころで、そもそも歌詞自体、儚げな水上花火の姿に着想を得たということだから、夏の季語を用いることは、作詞の状況だけを考慮するならそれほど不思議なことではない。それなら、なおさら歌詞の舞台を何故あえて冬に設定したのか、ということが気になってしまう。


そこで歌詞をもう一度読んでみると、どうも暖かさと冷たさの反転がこの曲のモチーフになっているのではないか。
歌詞に過剰な意味を読み込んでしまうのは、聞き手の悪癖と嗤われるかもしれないのだけれど、雑記としてここにひとつ、−−もとのゲームをプレイしたことがないので、歌詞から読み取れることだけにもとづいたごく私的な解釈だということを最初に断ったうえで−−思ったところを書き留めておく。


そもそも、冬の夜中に光る蛍火というイメージによってあらわされるのは、誰だろうか。いうまでもなく、それは「わたし」の思い人で、いまは亡き「きみ」のことである。
一般に蛍の光に付きまとう儚さのイメージが、ここで旅立っていってしまった「きみ」の姿に死の影を落としていることはうたがいえない。「蛍火」のイメージは、したがって連想の上では、第三パラグラフに出てくる「白く光る淡雪」のつめたい儚さと重なっていると読むことも出来るだろう。

けれどひとたび歌詞の流れに立ち戻ると、ここでは「淡雪」や「蛍火」はかならずしも「死」や「儚さ」を直接示しているわけではないことがわかるはずだ。「白く光る淡雪さえ とけないほどに寒い」という歌詞がしめすように、ここでは淡雪が溶けてなくなってしまう怖れのようなものはまだはっきりとは感じられない。それは過去において「わたし」がまだ「きみ」の死の予感にはとらわれていないことを示している。

そこにいるのは元気な「きみ」の姿だ。じっさい後半部と違って「きみ」の身体は、ここでは「冷たい死」よりも「命の暖かさ」に結びつけられている。前半部、この冷えきった冬の情景の中で寒さに凍える「わたし」の「かじかむ手」を暖かく包み込むのは、優しい「きみ」の手なのである。

ここにまず「冬の蛍火」という時期外れの季語が選ばれたひとつの理由を見ることが出来るかもしれない。
「きみ」は、なによりもまず、凍える夜に「わたし」を暖かく照らす「星たち」なのであり、まさに冬の荒涼とした風景の中に迷い込んだ、夏の「蛍」の光なのである。

だけれどもどうじに「きみ」の「光」は、朝には消えてしまうか弱い星の光、冬の季節にしか咲かない「淡雪」の光でもあることを忘れてはいけない。
ちょうど前半のリフレインとコントラストを作るかのように、「夜」と「朝」の景の転換を機に、「きみ」の死がつぎのように歌われる。

 

白く冷たい頬に 最後の花かざるとき


暖かかった「きみ」の手から、冷たくなった「きみ」の頬へ。前半部と後半部は、「暖かさ」と「冷たさ」の反転の構図によって構成されていることは明白だ。そして「きみ」が命の暖かみを失ってしまったいま、かじかむ手の「わたし」とそれを暖める「きみ」の関係もおなじように反転する。
みなが泣きながら別れを告げるそのとき、きみを遠くから眺め、ひとりぽつんとしている「わたし」は「海に咲くとても小さな和火」として描かれていることに注目しよう。
仮に海が「冷たさ」や「悲しみ」、和火が花火(これもまた蛍と同様、夏の風物詩)のことを指すのだとすれば、この表現がおなじ「光」のモティーフとして「(冬の)蛍火」と対応していることはいわずもがなだろう。
「きみ」=「蛍火」から「わたし」=「和火」へ。凍えていた「わたし」を暖めてくれた「蛍火」の「きみ」が、いまは「白く冷た」くなって、「和火」としての「わたし」に見守られている。「暖かさ」と「冷たさ」、ふたつの感覚を通じた、「わたし」と「きみ」の立場の反転の物語がここにはある。

さてここからはぼくの勝手な想像なのだけれど、「冬の情景」と「蛍火」という取り合わせが示すように、これは冷たいものと暖かいものがちょうど膚を触れ合うようにして結びつく歌なのだと思う。
冷たさと暖かさが結びつくとき、なにが生まれるか。この歌詞においてそれはおそらくふたつの反転だろう。

あの日凍えるわたしの「手」を握った「きみ」の手は、いまは「暖かさ」を失ってしまった。反対に「わたし」は冷たくなった思い人の頬を眺めながら、命の火を小さく燃やし続ける。

その火の温もりはきっと、いつか「わたし」のかじかむ手を握った「きみ」の体温の名残なのだろうか。