夢と灯火

身辺雑記, etc. 主に気に入った音楽や漫画についての感想

線分と時間:nano.RIPEの歌詞について

nano.RIPEの歌詞にはほとんどいつも共通したひとつのテーマがあるように思う。それはひとつの線分で結ばれた過去、現在、未来を旅するイメージだ。もっとも分かりやすいのが、おそらく、ボーカルのきみコが提供した、ミリオンライブの楽曲、「プラリネ」だろう。

今をゼロとしてどちらがプラスになるのでしょう?
わからない だけど行かなくちゃ 動けないならついておいでよ

後戻りできないくらい遠くまで来たんだ もう
あなたからもらったなにもかも道しるべにしてきたよ


彼女が作詞した他の歌を知っている者からすれば、これは単にゲームのキャラクターの心情表現であるだけでなく、きみコの歌詞の世界にとりついて離れないイメージのように思える。
それはツマビクヒトリの次のような歌詞をみれば一目瞭然だろう。

[...]

気が付けば遥か遠いところまできてしまった
たったヒトリで

ざわめくかりそめのココロその裏で たなびく過去 今 未来 付かず離れず
揺らめくキオクを連れ未踏の世界へ

 

時間の旅というテーマは、タキオンのつぎのような歌詞においても姿を見せるだろう。

ほんの少し近づいてまた遠ざかった 瞬く間に遥か先へ いや過去へ
ぼくが今向いているのは未来だっけ スピードなら光くらいザラに出るよ

 
このように、彼女の歌詞の世界では、過去と現在、未来はひとつにつながった一本の線をなし、そのなかで旅をすることが歌の叙情の核となっている。

 この時間のイメージはたぶんに抽象的だ。人間はかならずしも過去、現在、未来をひとつの線分のようには生きていない。ハローできみコ自身が歌うように、「まっすぐっていうのは自然ではあり得ない」。
ひとはしばしば同じ過ちを繰り返すし、そもそも、すべての過去がひとつの未来をめがけて一本に伸びているかどうかは、未来までの道のりをすべて辿りきらなければ、はっきりとはいえないことだ。行き止まりも引き返すこともなくまっすぐ伸びていく過去、現在、未来というイメージは、だから、彼女自身の実感というよりはむしろ、その願望に属する事柄といえる。
そのような願望を抱くのは、逆説的にも自分の過去と現在が、ひとつの目的を目指しているということを信じられない人間のように思える。
彼女の歌は、結局のところ、次のような不安に抗して歌われているのだ。

明日が消えてしまうかも すべて消えてしまうかも
ぼくがココに居たこともなかったことになるかもしれない

[...]

離した指の行方は?
解いた糸は切れてしまう?
破った誓いは塵になる?

 

つぎつぎと流れ去っていき、流れる傍から掻き消えていく記憶、どこへ向かうかも分からない時間の奔流。彼女の歌は、繰り返される忘却に抗して、過去と現在、そして未来を数珠のように繋ぎ止めようとする。

時間が後ろへ流されてく 手を振る間もなく流されてく
あの子の匂いが薄れてゆく 赤い目をこすった まだ眠りたくない

夢を見るたびオトナになる 大事なものから零れてくの?

もしも明日目が覚める頃すべて忘れてしまうとしても
爪で掻いた傷跡もいつかは消えてしまうとしても

ぼくの細胞のヒトツがずっと覚えてるから (「細胞キオク」)

 

今手にしている感情さえも明日にはもう頼りないものだ 
そんな当たり前に染まれなくて
 
流れる景色に融け消えた日々に 遺せた何かはあるのかな
[...](「フラッシュキーパー」)

 


離したそばから繋いでしまえ あたしの中だけでいいから
(「パラレルワールド」)

 

彼女の歌詞のなかに頻出する「記憶」のテーマはすべてこのような彼女の未来=時間への不安と結びついている。

この不安は、今の自分を捨て去って新しい未来へと跳躍したいという、もうひとつの願望とうらはらの関係にある。じっさい、彼女は、過去のどんな些細な瞬間も捨てたくないと思いながら、しばしば現在の自分であり続けることに苦痛すら感じているように見える。

堰を切ったノドから手が出るほど欲しくなったんだ
ぼくじゃない別のだれか
夢と希望 他になにが要ると思えた頃のぼくは今いずこへ (スノードロップ)

 

もがいたって足掻いたって沈んでゆくばかりだ
なんとなくじゃ変われないって痛いほどわかってるはずなのに(セラトナ)

 

空になりたいな くだらないぼくを捨て
きみになりたいな その目で空を見てみたい (絶対値)

 
結局、彼女のなかにある葛藤は、彼女自身が「痕形」と「ツマビクヒトリ」ではっきりとつぎのように歌っている状態以外の何ものでもないだろう。

そんでぼくはこんなにも未来を欲しがるくせにさ
まだぼくはこんなにも過去にしがみついてんだろう (「痕形」)

 

変わらないもの探しては変わりたい僕に惑うよ (「ツマビクヒトリ」)

 
ひとつの線分で結ばれた過去、現在、未来という時間のイメージは、このように持続とゼロからの開始というふたつの願望の間で揺らぐ彼女にとっては、アンビヴァレントなモチーフとなるだろう。

この葛藤の解決を詳しく追うことはできないが、彼女の歌詞を読めば、彼女が出した答えを推測することはできる。

 

行こう せーので飛び越えよう 約束なんて忘れてしまおう
今日が昨日に変わるたびにぼくら新しくなれるから
利き足が宙に浮いたらまたゼロになる

明けない夜はないというけれど明けてほしくない夜を知らないの?

始まれば終わることばかり それなら始まりを繰り返そう
何万回と越えた夜はつまりはそういうことでしょう?

今日が昨日に変わるときに繋ぐのは指ではないと知れば
どんな夜もぼくらを離せないから見えない線をイメージして
せーので今飛び越えよう

(「日付変更線」)

 

過去が失われてゆくものだとしても、絶えざる開始=跳躍の積み重ねが生み出すひとつの持続があるのだとおそらく彼女は信じているのだ。だからこそ彼女は歌い続けることができる、まるで昨日などなかったように、前だけを向いて。その後にはひとつの道が出来るだろう。

 

あの夏の「約束」:名犬ラッシーED「少年の丘」について

「少年の丘」


世界名作劇場の名犬ラッシーのエンディングテーマ



『名犬ラッシー』は思い入れのある作品だ。小さい頃、いくつかのテレヴィシリーズをきっかけに、原作小説を読んで以来、ぼくのなかからその名前が消え去ったことはない。
このテレヴィアニメシリーズも、そんな作品のひとつだが、おおかたの内容は残念ながら忘れてしまった。
だが、オープニングとエンディングの主題歌だけはいまでも鮮明に記憶に残っている。
なぜそれほどまでに印象に残っているのかというと、おそらく、郷愁を掻き立てるメロディと歌詞の組み合わせが、ぼくのなかで「少年時代」のひとつのイメージを形作っているためだろう。
この「少年時代」という言葉の含意をおおげさに述べるなら、幼年期の無垢から青年期の自意識のあいだに開かれた過渡的な期間、いくぶんヒロイックで、あらゆる期待に開かれながらも、いまだそれを成し遂げる力を持たず、かといって青年期の苦渋にも浸されていない、純粋な希望に満ちた待機の時間だということができる。
このような典型的な「少年」像が、ぼくや他の誰かの人生の現実に即したものかどうかはわからない。ただ、アニメ『名犬ラッシー』の主題歌、とりわけそのエンディングテーマ「少年の丘」は、そのような「少年時代」の幻像をぼくらの"回顧的な"眼差しのまえに描き出しているように思うのだ。
このような印象はたんなる思いなしとはいえない。じっさい、大人になってから見返すと、楽曲「少年の丘」自体が、「子供」の視点によって書かれているわけではないことに気づくだろう。
冒頭部を引いてみよう。


黄昏には君と
丘の上 駆け上り
遠い空を見てた
少年のあの頃 woo

ポケットから落ちた
キャンディと時の砂
大人になるための
旅は始まってた

 


「少年のあの頃」という表現から、ここでは、少年時代は、現在時として語られるのではなく、大人になった「僕」の回顧の対象として綴られているということがわかるだろう。
誰の目にも明らかなように、楽曲「少年の丘」においては、このような「歌」の「現在」と「過去(少年時代)」の対照は、「丘」という空間的なモティーフに仮託されて表現されている。

燃え上がる 夕陽の彼方
まだ出逢えない 人や街が
きっと待ってる
微笑んで 約束したね
あの丘を越え いつか夢を
探しに行こうと

 
ここで、まず目につくのは、垂直方向に伸びる丘がいわば、「僕」と「君」の生まれ故郷を空間的に限定する「境界」として機能していることだ。この歌の肝は、「約束したね」という過去形が十二分に語っているように、大人になった「僕」がすでにこの「境界」を越えて、「丘の向こう」の世界にいるという点にある。
こうして、丘は、たんに空間的なばかりではなく、「僕」の「過去(少年時代)」と「現在」を隔てる時間的な「敷居」の役割も果たすことになるのだ。

このような「時間性」と「空間性」の同一化という修辞は、「大人になるための旅」という表現にすでに予告されているばかりか、丘が一貫して、「黄昏」、「夕陽の彼方」、「未来の彼方」、「流れ星」という時間的推移を示す表現と結びつけられているところに明白に現れているだろう。

 

「丘」と「少年時代」、時間と空間はひとつに結びつき、同じ回顧の対象として描かれる。

子供向けのテレヴィ番組で、あえてこのような「少年時代」への「回顧」を歌詞に込めた「少年の丘」の狙いは明らかだ。


それは、少年少女時代にこの曲を聴いたひとたちが、大人になってあらためてこの曲を聞き返したとき、はじめて意味をなす狙いだ。すなわち、終わることのない「夏の日」、「思い出の丘」、幻想の少年時代のイメージを、大人になった子供達に贈ること。
ここにおそらく、いまでもぼくがこの歌を懐かしく思い出す理由の一端があるように思う。

果てしない 未来の彼方
もし僕達が 遠い場所で
暮らすとしても
永遠を 約束したね
あの夏の日は 今も終わることがない

 

ぼくにとっては、そしてそれはこの歌を覚えている多くの視聴者にとってもおなじだろうが、この楽曲自体が、あの夏の日にとり交わされた「永遠の約束」なのだ。

紫陽花の微笑:高浜寛、フレデリック・ボワレ著『まり子パラード』感想

仏語版『まり子パラード』

あらすじ

写真を元に絵を描くフランス人の漫画家と、日本人のまり子はすでに数年来、作家とモデルという関係を続けている。『まり子パラード』は江ノ島でのふたりの淡々とした取材紀行を背景に、芸術の勉強を続けるために留学を決意したまり子が漫画家に別れを告げ、去っていくまでを描く。この作品は漫画家フレデリック・ボワレとそのモデルをつとめる日本人女性の関係に取材しつつ、高浜が漫画を描き、そこにボワレが写真から生み出した「まり子」のデッサンを挿入し、纏め上げるという形で作品化されている。

この作品の日本での公刊のあと、親類や友達は、みな、さまざまな反応を返してくれました。そんな彼らが言ったことのなかで、ただひとつだけ、同じことがありました。
「ここには筋と言っていい筋は無い。時間だけが流れる。ただ頁を閉じたとき、心にひとつの重石が残る。ほとんど、苦しみといっても良いような」(高浜寛、仏語版序文)



①時間と情動

筋らしい筋が無い漫画では、画面と台詞の恊働によって生み出されるコマの継起が、登場人物の心理の微細な動きを表現し、ただ淡々と流れ行く時間を現出させる。
その空白にわれわれは、一種の情緒を読み込もうとする。
そこでは、心理は、分析や叙述の対象ではないことに注意しよう。たとえばこの作品、『まり子パラード』において、まり子に別れを決意させた動機、その芯にある部分を掴むことは難しい。特別不幸でもなく、男を嫌っているわけでもない、画面からは焦燥などは決して伝わっては来ないのに、彼女はいったいなにを思い出発を決意したのか。そのことを考えると、宙をつかむ思いがする。のちの突堤の場面で、彼女自身から、留学の計画があかされるが、それは物語のなかでひとを突き動かすあの明白な動機とはどこかかけ離れ、よそよそしい曖昧な輪郭を保っているように思われる。

おそらく、この作品に作者が序文で引いた「苦しみ」があるとすれば、それはまさにこの点においてではなかろうか。
漫画家は突然訪れる別れの理由をはっきりと理解することは無い。おそらくは、まり子自身もまた、本当の理由は知らないのだ。ただ別れの予感だけがある。無慈悲という形容でさえまだ人間的な暖かみを保っており、それゆえに不適当であると言いたくなるほどに、なんの理由も目的も無くただ過ぎ去っていく時間の持続、それこそがまり子に出発を決意させたものだ。



②微笑み

漫画を通じた、このような時間の体験こそが、「苦しみ」と言ってもよいような「ひとつの重石」を残す。

そのいっぽうで、ふたりの別れを語るこの突堤の場面が、ときならぬフナムシの攻勢によって中断されるように、この作品には、そのような不安と苦しみに陳腐に淫することを妨げる軽さや微笑があることも忘れてはならない。

だが、もし分析を一歩具体的に進めるならば、微笑とは時間の苦しみをまえにした表情でなくてなんだろうか。

この作品において、しばしば「まり子」はいたずらっぽく微笑んでいるが、それはたんに絵柄の問題ではなく、厳密に作品の主題である。たとえば、43頁からひたすら微笑みとその変奏ばかりが画面を埋め尽くすのを見てみよう。「私は意味も無くわらうのよ」というまり子の台詞からはじまって、ボワレのデッサンに切り替わり、まり子の口元とともに、Front(前線)=歯の防衛を謳う口内衛生用品の広告の人物、アンネフランク、エノラゲイのパイロット(?)、ベトナムの戦災児(?)などみな一様に笑みを浮かべた写真の口元がつぎつぎとアップに映し出され、それがまり子の一文字に閉じた口を隠す扇に描かれた微笑みのような弧へと至る。これらの上弦の半弧のモティーフは、戦いを模した獅子舞の螺旋運動をつうじて、船の軌跡へと姿を変え、読者はボワレのデッサンから高浜の漫画へ戻るだろう。微笑みのモティーフは、戦争というもうひとつの主題と結びつきつつ、まるでその無償性を誇示するかのように、画面に溢れている。

 

重要なのは、このような微笑みの主題が、その儚さ、意味をはぎ取られた他愛なさによって、時間と別離、そして苦しみに結びついていることだ。そのことは64頁を見ればあきらかだろう。まり子の笑顔を画面一杯に映し出しながら、つぎのような漫画家の独白が入る

 「いつか、きっと彼女は消えてしまう。たぶんこんなふうに笑いながら」

 

『まり子パラード』においては、微笑みと別離、苦しみはしたがって境を接した感情である。それは、94頁、漫画家とまり子の性行為がほとんど写真に近いかたちで、印刷されている場面にもみとめられるだろう。そこでは、「好き」と微笑む「まり子」の写真の横に、漫画家の「僕も」という台詞が、吹き出しとともに挿入されている。次の頁に進むと、物語はふたたび高浜の絵に戻る。そして、性行為の後のふたりの会話が続けられるのだが、そこで、写真(?)とまったくおなじやりとりが、ただし、今度は、漫画家とまり子の台詞を反転させて繰り返される。そのとき写真(?)のなかで笑っていたまり子は、今度は泣いているのだ。

微笑みと苦しみ、その背中合わせの同居、『まり子パラード』の主題はほとんど、これに尽きているのかもしれない。 

 

③デッサン

ここで、漫画家が絵を描くために写真を撮っているという事実はある種の重みを持つ。
写真は、たんなるデッサンの素材である以上に、このような時間から移ろいやすい微笑みの一瞬を切り出し、不動化してしまうために必要とされるからだ。
冒頭ですでに、漫画家の仕事が、作品というよりは、まり子と漫画家ふたりがともに生きた時間の記録になっていることが示唆されているが、このような愛の永続への願いは、最後の場面になって完璧に形をとる。その場面を見てみよう。


まり子はすでに旅だってしまった。船の軌跡が半円を描く。漫画家の歩く道も弧を描き、それがアップに映し出された紫陽花の描き出す半円に至る。漫画家は居なくなってしまった「まり子」を砂の上に描く。そしてその隣に寝そべって写真を撮ろうとするとき、その歩みは弧を描き、描かれたまり子は微笑んでいる。シャッターが切られる…

 

『まり子パラード』の表紙はこうしてとられた写真の一枚である。いまや作品は微笑みの移ろいやすさと写真=デッサンに刻印された不動の瞬間というふたつの時間の間で宙づりになる。
作品のキーをなす紫陽花。「愛の永続」と「変わりやすい心」、洋の東西を隔て、ふたつの花言葉を持った紫陽花は、「デッサン」と「微笑み」というふたつの時間の隠喩なのかもしれない。

180度の孤独:パスピエの「プラスティックガール」について

最近、バンド、パスピエを聴きはじめた。ヴォーカルの声質から相対性理論との類似が言われているようだが、個人的には、その楽曲の纏う奇妙な「懐かしさ」によって、どこか無機的な印象のある相対性理論の楽曲とは一線を画しているように思う。
なかでも好きなのは、「プラスティックガール」だ。
この楽曲は、遊戯性がつよい他の楽曲とは異なり、きわめて物語的ともいえる世界観を歌っている。リフレインを引用してみよう。

プラスティックガール
あの子の揺れないスカート 愛すべきニセモノだらけ180度

 

「ミニチュア模型広げ遊んでいた 勝手すぎる街」という歌いだし、そして「揺れないスカート」、「愛すべきニセモノ」といった表現を見ればわかるように、表題の「プラスティックガール」は、おそらく、ミニチュア模型の上に置かれたプラスティック製人形のことを指す。

 つづくリフレインの

あの頃に戻れないなら 新しい嘘をついてよ おとぎ話聞かせて

という歌詞からは、ひとりの男が、人形とミニチュア模型をつかって、「撮影途中の映画みたい」に試行錯誤しながら、二度と戻ってこない青春の日々を再現しようとしている光景が読み取れるだろう。そうして主人公は、「おとぎ話」という虚構=「嘘」の世界のなかで、失われた時をふたたび取り戻そうとしているのだ。

 

だが、「あの子の揺れないスカート 愛すべきニセモノだらけ180度」と歌われるように、主人公もこの「おとぎ話」のなかに浸りきっているわけではない。

そのことはちょうど「180度」という角度に現れている。指のシャッターで「四角」に切り取られた「ハコニワの世界」は主人公を「360度」取り囲むことはありえない。それはつねに「180度」の限定された視界として、歌い手が決して入り込むことが出来ない、溶け込むことが出来ない世界を、ただひたすらに開示し続けている。
「あの頃に戻れない」という時間の隔たりは、ここでは「ミニチュア模型」に入り込むことが出来ないという空間的な距離と二重写しになっているといえるだろう。

 この歌が喚起する痛切なノスタルジーはまさにここにある。

 

 悲しくなんかないんだよ 涙は出ないくせに

でも寂しくなったら 誰かのせいにしていいかな

 

嘘やおとぎ話の力に頼っても消し去ることの出来ない孤独。埋められない距離。

このような孤独感をかりに「180度の孤独」と名付けてみたい。この孤独は、パスピエの歌詞の世界の根底にある主題とつながっている。


たとえば、「いい子だね こっち向いて、こらあっち向いちゃいけない」と歌う「ハレとケ」、「Yes/No」のスラッシュ記号、「右か左か 嘘か本当か/めまぐるしく変わる/いつの間にかウラのウラ」と歌われる「裏の裏」、そして、

 

 うしろの正面だあれ あなたはだあれ
(「トリップ」)

 

巡り会い 巡れば巡る くるりくるり隣り合わせ
偶然はわざと 運命のしわざと
いついつ出やる輪の上 うしろの正面だあれ?なんてね

振り向いてほしいんだよ 同じ笑顔で待ってる
私に気づいて

(「トキノワ」)

 

と「かごめかごめ」の童謡がモティーフになる楽曲が複数存在していることからもわかるように、パスピエの歌詞においては、ほとんどつねに、表と裏、嘘と真実、いいかえれば、180度の角度を境にして隣接しながらも背馳し合う、ふたつの世界が問題になっている。

「180度」という数字は、したがって騙し合いや擦れ違い、孤独といったテーマと結びついたきわめてパスピエ的な数字なのである。

「プラスティックガール」のばあい、主人公とプラスティック製の「キミ」を隔てる、指で作った「四角」の透明な窓が、世界を180度ずつに分割する境の役割を担っているといえるだろう。

彼はじぶんのうしろの180度=現実をけっして振り向かない。透明な窓を破って「おとぎ話」の世界に入り込みたいという願いだけが彼を突き動かす。

この歌が人の心を動かすとすれば、まさに主人公のこのかたくななまでの願いゆえだろう。

歌詞はつぎのように、閉じられる。

 

今から 迎えに行くから
キミは変わらず微笑んで

 

両義的な結末*1だ。変わることのないミニチュアと変わりゆく此岸の対比を匂わせながら、永遠に移ろうことのない青春、「おとぎ話」の世界への扉がすぐそこにあるかのように信じられているのだから。

 

 

 

 

*1:パスピエにとって180度の「おとぎ話」を、反対側180度の現実によって否定することが問題ではないことに注意しよう。この180度の孤独を脱する唯一のイメージはおそらく「円」である。「Yes/No」の「Yes/Noのメリーゴーランド」という歌詞が示すように、裏と表は補い合って、円環を形作ることで、はじめてひとつの全体になるからだ。陰陽が互いに補い合う様に、「ワールドエンド」では「裏と表 表裏一体が絶対でしょ」と歌われている

空駆ける自由は誰のものか:湯川潮音の歌詞について

初期楽曲から「かかとを鳴らそ」まで

 湯川潮音の初期楽曲を聴くと、「飛翔」というモティーフの執拗な反復ぶりに驚かされずにはいられない。

 たとえば、代表曲「渡り鳥の三つのトラッド」では「極上の羽飾りのコートをまとって」みっつの季節の面影へと吸い込まれていく「あなた」と「飛び立てる羽」を持たない「私」の離別が語られ、「海の上のパイロット」では、船とともに海に沈んでゆく「私」を置いて飛行機で空へと飛び去っていく「あなた」の姿が描かれる。

 同じアルバムに収録されている岸田繁作曲の「裸の王様」では、「鉄格子」の窓に閉じ込められた「私」によって、「日が昇るのも沈むのも目をくれないで、飛び立って行ける」「天を舞う鷹のよう」な「あなた」の「戦い」が歌われるいっぽう*1、つづくアルバム「紫陽花の庭」においては、「高らかに舞い上が」り「私よりどこまでも遠いとこへいく」ツバメの姿に対する「私」の明るい憧憬(「ツバメの唄」)が歌詞のリフレインを形作る。

 このように、湯川潮音の初期楽曲においては、自由に大空を飛ぶことは、ほとんどつねに、「私」には手の届かない男性的な美質として現れる。 若いころから海外に親しんでいた彼女にしては意外なことに、空を駆け、異国へと飛び立っていける自由を享受するのはあくまで「あなた」であり、歌い手の側は、しばしば閉所に閉じ込められ、広い空間を駆けていくことを許されないのだ*2

 この関係はそのまま歌詞の中で歌われる「恋愛」のありようと重なっている。ちょうど「さよならの扉」や「見つめてごらん」が示すように、「私」を捨てて立ち去っていく「あなた」に対して、「私」は思い人が残した「言葉」にとらわれたまま、「私さえ ここにいるように」(「キルト」)と、「待つ女」の姿勢をつらぬきつづける。彼女の歌詞にあっては「あなた」が「私」を捨てて旅立っていくことはあっても、「私」が「あなた」を拒絶し遠ざかっていく、というような光景は稀なのだ。かりにそのような離別があったとしても、「私」はつねに「あなた」がふたたび自分を訪れてくれることを心のどこかで願い続けている。

 

さよならの扉 固く鍵を回したけれど

同じ気持ちなら またノックして

ありがとうの声は 電話越しに鳴り響くチャイム

いつか聞こえると信じていたいから

 

一点に固着し、閉ざされた「私」と、広い空間へと開かれた「あなた」の自由、この対比は湯川潮音の曲の常数である。

このような、ほとんど保守的といってもいい、「私」と「あなた」の関係の上に築かれた彼女の歌詞の世界にあって、今回とりあげる「かかとを鳴らそ」はひとつの転換点を形作っているといえるだろう。

 

囚われていた鎖 解かれたら

出口のない空に身震いした

どこへ行こう

どこへでも行けてしまうから

いつまでもわたしは踏み出せないまま

 

「出口のない空」「僕は踏み出せない」という表現からは、いっけん彼女の初期作品と通底する「閉塞感」が歌われているようにみえるが、ここには見逃せない変化がある。歌い手の一人称「わたし」に対応する「あなた」が不在なのだ。これは湯川潮音の歌の世界に変更を迫るきわめて重要な細部だといわねばならない。彼女の歌の世界の多くを構築していた「あなたー私」の関係の消失。歌い手がいまや、「どこへでも行けてしまう」のはこのような人称関係の変化と切り離すことが出来ないだろう。「あなた」に従属する「私」から、自立して生きる「わたし」の単独性へ、この変化が「鉄格子の窓」のなかに歌い手を繋ぎ止めていた「鎖」を断ち切ったのだ。

 

つづく後半部はそのことをよく示している。あたかも沈み行く船と心中するような女性的な忍従から解き放たれ、「海の上のパイロット」が象徴するあの少年的な冒険をわがものとしたかのように、彼女は歌う。

 

変わり始めた空は広がり続けている

思っていた様にずっと歩こう

囚われていた鎖 解かれたら

出口のない空に身震いした

かかとを鳴らそ

どこかへ辿り着いた時

ぼろぼろに疲れて笑っていたい。

 

「出口のない空」、たしかにここでは、「空」はその途方もない広がりによってかえってひとつの「壁」のように機能してしまっている。 けれどもそれは「湯川潮音」の初期楽曲を支配していた、二者関係の、あのどうしようもない閉塞感とはあきらかに異質なものだ。それはちょうど、閉所に閉じ込められていた人間が外へ顔を出したとき、空のまばゆさに立ちすくんでしまうあの感覚そのものだろう。この途方もない自由の目眩。「あなた」に繋ぎ止められて生きる「私」とはちがって、どこへでも行ける「わたし」は空へと飛び立っていくことすらできるにちがいない。 湯川潮音は、ひるむことなく歩き始める。いま、空を駆ける自由は彼女のものだ。

 

 

*1:ここでは「蝶」というかたちで例外的に女性と飛翔とが結びつけられているが、あくまで飛び立ったさきで見つけるものは「あなたの見たもの」ではないことが強調される

*2:むしろ「HARLEM」の歌詞が示す通り、「私」にとって異国への旅は、「まるでわからぬように」話される異国の言葉を聞きながら「あなた」の「小さな箱庭」に幽閉される経験となる。

光の雨:Fairground Attraction の Moon on the rain について

試訳

地下のバーに鳴り響くジャズ、雨の日*1に月は出ている
飲み過ぎ、遣いすぎ、またすっからかんね
ああ愛しのひと、今夜はどこにいるの
思い出す、よくテムズのほとりを歩いたこと
堤防の明かりが宝石の鎖みたいだった
はじめのころあなたがいったことを忘れない。
あなたはいったの、「きみの心に光の糸を掛けてあげる」って

持っていたあなたの写真、サイン入りの写真、
ポケットにいれて長いこと経った、いまではぼろぼろ
ああ愛しのひと、今夜あなたの傍には誰がいるの
あの公園の回転遊具にでもいるのかしら
昏くなって閉園してから、柵の間から忍び込んだ。
出会った頃わたしに教えてくれた歌を彼女にも教えているのかしら
私たちの心に響いたあの歌、ベルとバンジョーが奏でるあの曲を

いまではバーは空っぽ、みんな家に帰ってしまった
たぶんこれから、ひとりであの堤防を歩いて帰る
ああ愛しのひと、あなたに会えて良かった、
良かった、ジャズの鳴り響く地下室のバーと、宝石の鎖があって。
飲み過ぎて、遣いすぎてしまったけれど、
雨の日の月が出ているのだから

 

解釈

わたしのお気に入りの曲Fairground AttractionのMoon on the rainについて解釈をすこし書き留めておきたいと思います。まず歌についての大まかなイメージを掴むため、冒頭を引用してみましょう。

Jazz in a basement bar, the moon's on the rain
Drunk too much, spent too much, penniless again
Oh, sweetheart, where are you tonight?


地下のバーに鳴り響くジャズ、雨の日に月は出ている
飲み過ぎ、遣いすぎ、またすっからかんね
ああ愛しのひと、今夜はどこにいるの


この物憂い歌いだしに端的に現れているように、「雨の日の月」が、思い出のジャズバーに足しげく通うわたしの恋の歌であることはまず疑えません。けれど、これだけでは「わたし」の性別や、「あなた」の姿など具体的なイメージまでははっきりしません。
 わたしは最初、

Drunk too much, spent too much, penniless again
飲み過ぎ、遣いすぎ、またすっからかんね


という歌詞からやさぐれた中年男性を想像していたのですが、
恋人の「あなた」が「わたし」に言う

You said,"I'll put a string of lights 'round your heart"
あなたはいったの、「きみの心に光の糸を掛けてあげる」って


という「光」の「宝石」を纏うイメージから、むしろ「わたし」は女性なのではないかと思うようになりました。

 じっさいよく歌詞を読んでみると、次のような文章に出会います。

Is she learning the song you taught me at the start?
The one the bells and the banjos played on our hearts

出会った頃わたしに教えてくれた歌を彼女にも教えているのかしら
私たちの心に響いたあの歌、ベルとバンジョーが奏でるあの曲を


ここで唐突に出てくる「she」は「彼女」と訳すほかはないのですが、さしあたり注目すべきは、かつて「わたし」が恋人の「あなた」にとって占めていた位置を「彼女」がいまは占めているということです。だとすれば、(たいへん異性愛中心主義的な解釈で申し訳ないのですが)「わたし」は「女性」だととるのがよいでしょう。


 さて、この箇所を、「持っていたあなたの写真、サイン入りの写真」というフレーズとあわせて考えてみると、わたしの恋の相手はどうやら「地下のバー」で演奏していたジャズミュージシャンのひとりではないかと推測されます。

ふたりはおそらくジャズバーで、ミュージシャンと観客、あるいは演奏家と歌い手として出会ったのでしょう。お金はないけれど、愛情だけはある。ジャズバーの帰り道、ふたりでよくテムズを歩いて、そんな幸せをかみしめていたのかもしれません。けれどもいつしか「あなた」のこころは「わたし」を離れていきます。

「あなた」は「わたし」を捨て「彼女」のもとに走った。そして場末の小さなバーからどこか遠くへ飛び立っていってしまった。


こうして最初のスタンザの意味があきらかになります。

Jazz in a basement bar, the moon's on the rain
Drunk too much, spent too much, penniless again
Oh, sweetheart, where are you tonight?
地下のバーに鳴り響くジャズ、雨の日に月は出ている
飲み過ぎ、遣いすぎ、またすっからかんね
ああ愛しのひと、今夜はどこにいるの


じぶんを捨てた「あなた」を忘れられない「わたし」はいまでもこうしてふたりの出逢いの場所、「地下のジャズバー」を訪れているのです。

「雨の日の月」はしたがって、彼女の切ない未練を歌った歌といえるでしょう。


ここからが本題です。

タイトルの「雨の日の月」、この歌では、二度このフレーズが繰り返されます。

この繰り返しには意味があります。

歌いだしのフレーズは、悲嘆にくれるわたしの未練を視覚的に表す情景描写になっているわけですが、最後を締めるmoon on the rainの効果は、それとはすこし違っています。最初否定的なニュアンスを伴っていた「雨の日の月」はここでは肯定的な感情のもとで歌われるからです。歌詞をよく見てみましょう。

Oh, sweetheart, I'm glad that we met
And that there's jazz in the basement bars and jewels on chains
'Cause I've drunk too much and spent too much
But there's moon on the rain 
ああ愛しのひと、あなたに会えて良かった
良かった、ジャズの鳴り響く地下室のバーと、宝石の鎖があって。
飲み過ぎて、遣いすぎてしまったけれど、
雨の日の月が出ているのだから

 

But there's moon on the rain、butが示すように「わたし」の感情がそれまで以上に強く込められていることが、まず確認できます。それはいかなる感情なのか。文章の前後を見てみると、この文章が、 I'm glad that...「〜して嬉しい、良かった」という主文の理由を説明する'Cause以下の文章に組み込まれていることがあきらかになるでしょう。さて'Cause以下はふたつの文章が続きます。そのうち前半部の、「飲み過ぎて遣いすぎてしまった」、というのは否定的な事柄ですから、「〜して嬉しい」(I'm glad that...)の理由になるとは考えづらい。としますと、接続詞'Causeによって提示されるわたしの「喜び」の理由はむしろbut以下にあることになる。構文としては[Because [A but B]]と捉えるということです。このbut(逆接の「しかし」)のあとには、したがって「I'm glad」という喜びの感情を説明するだけの強いポシティヴな事実の提示が期待されているといえるでしょう。その事実こそが「雨の日の月が出ている」ということなのです。

いわばここで歌い手は「わたしはあなたに出会えてよかった、だって雨の日の月が出ているのだから」と語っているわけです。

 

ではなぜ「雨の日の月」が喜びをもたらすのか。

ここではあえて、歌詩に込められた技巧からすこし穿った見方をしてみましょう。

ふつう詩の世界では行の終わりの音を一致させて、「韻」を踏みますが、「韻」が揃っている箇所のうちとくに重要な部分では、意味やイメージもなんらかのかたちで重なり合うことが多いものです。
さてbut there's moon on the rainという最後の締めくくりの行は、どの行と韻を踏んで
いるでしょうか。

歌詞をみると、最後のon the rainがAnd that there's jazz in the basement bars and jewels on chainsのon chainsと部分的ながら韻を踏んでいることがわかるはずです。

Oh, sweetheart, I'm glad that we met
And that there's jazz in the basement bars and jewels on chains
'Cause I've drunk too much and spent too much
But there's moon on the rain 

このjewels on chains、文字通りの意味なら「鎖」についた「宝石」ということですが、歌詞を振り返るといちど比喩的なモチーフとして現れていることに気づくでしょう。

I remember when we used to walk by the Thames
The lights on the embankment like jewels on chains
I'll never forget what you said at the start
You said, "I'll put a string of lights 'round your heart"
思い出す、よくテムズのほとりを歩いたこと
堤防の明かりが宝石の鎖みたいだった
はじめのころあなたがいったことを忘れない。
あなたはいったの、「きみの心に光の糸を掛けてあげる」って


ここでは堤防の明かりが糸上に連なっていることを「宝石の鎖」とよんでいます。
だとすれば、地下室のバーですっからかんになり、テムズの土手を一人とぼとぼと歩いて帰るわたしにはじっさいの「宝石の鎖」よりも、この「光の鎖」のほうがふさわしいように思えます。

 

さて、以上のことをふまえて、もういちど最初の問いに立ち返ってみましょう。この「光の鎖」jewels on chainsと「雨の日の月」moon on the rainのあいだにいったい、どんなつながりがあるのか。

ここで「雨の日の月」という風景を具体的に思い描いてみてください。小やみになって、ぽつぽつと糸を引くように降る「雨」のなかに月の光が差し込むと、まるで光の糸のようには見えないでしょうか。
「あなた」は「わたし」に言っていました。

"I'll put a string of lights 'round your
heart"

「きみの心に光の糸を掛けてあげる」

その言葉は、小やみの雨が月光の中に描く無数のきらめく糸によって、たしかに実現されたのかもしれません。

*1:in the rain「雨のなかで」という言い回しとは異なりon the rainという言い回しは辞書には見当たりません。おそらく、後述する「脚韻」の問題がonが選ばれた理由のひとつだと思われます。onは空間的ないし時間的な接触と近接を表しますが、ここでは時間的な意味として捉えました

抱擁の孤独:川本真琴の「微熱」メモ

川本真琴の「微熱」という曲が好きだ。

 

川本真琴の歌詞は、しばしば身体と身体とが触れ合う瞬間をめぐってつむがれている。たとえば「背中に耳をぴたっとつけて 抱きしめた」という歌い出しから始まって、「唇と唇 瞳と瞳と 手と手」「2コの心臓がくっついてく」というリフレインにいたる「1/2」をはじめとして、「届かない これって最高の1cm」というかたちで歌われる「愛の才能」、「チョコレイトのサラサラ銀紙」を唇にあてて接吻する「ピカピカ」、そして「fragile」にいたるまで、彼女の歌詞は「身体」と「身体」の直接的ないし間接的な接触への欲望に溢れている。
「おとこの子になりたかった」と歌う「1/2」の歌詞が示すように、このような触れることへの欲望は、フラジャイルな身体を抱えた「あたし」が抱く、「異なる身体」との「同一化」の欲望であるといえるだろう。

今回とりあげる「微熱」では、そのような「同一化」の願いの流産が「微熱」というモチーフに仮託されて表現されている。

冒頭部から歌詞をすこし辿ってみよう。

じれったい口唇噛むと 大人みたいに嘘つく
なんにもふれず 数えず 街がざわめくまで星を見てるの?

「微熱」のはじまりをつげるのは、「じれったい口唇噛むと」という「自己接触」のモチーフだが、次の行で「なんにもふれず」と歌われるように、「1/2」とは異なり、ここでは身体は他の身体にむかって「開かれる」ことなく、あくまでじぶんの中に「自閉」しているかのように思われる。

このような自閉の印象は、つづく行にさらにつよく現れることになる。

裸で広い宇宙に いつも君と浮かんでる
なにも育てず 傷つく まるでそれで1コの生き物のように

つづく「抱きしめると世界に弾かれそう」という一節が示すように、最も幸福な接触体験であるはずの抱擁すらもここではどこかよそよそしい。

では、「あたし」を世界から弾き飛ばしてしまうものとはいったいなんなのか。それこそが「微熱」である。真っ白な東京、雪の降る夜を窓辺に聴きながら、「あたし」はいう。

こぼれ落ちる 強い発熱
1000000回目の太陽 昇っても
哀しい 哀しいね とけない微熱

からまったまんまでひとりぼっちだって教えるの?

ここでは、街を覆う溶けない「雪」と、「あたし」の身体の「微熱」が重ねられている。ここからも分かる通り、この歌のテーマは「ふたつの異なった温度」だ。「君の鼓動にとけない微熱/別々の物語を今日も生きてくの?」という歌詞が示すように、触れることはお互いの「体温」の違いを意識させてしまう。「他の身体」と触れ合い、ひとつに溶け合いたいという「あたし」の願いは、それを実現するはずの接触そのものによって、無惨にも潰えるほかないだろう。「あたし」を世界から弾き出すもの、それは「あたし」の「身体」に宿る「命の温もり」そのものなのだから。