夢と灯火

身辺雑記, etc. 主に気に入った音楽や漫画についての感想

180度の孤独:パスピエの「プラスティックガール」について

最近、バンド、パスピエを聴きはじめた。ヴォーカルの声質から相対性理論との類似が言われているようだが、個人的には、その楽曲の纏う奇妙な「懐かしさ」によって、無機的で隙のない相対性理論の楽曲とは一線を画しているように思う。
なかでも好きなのは、「プラスティックガール」だ。
この楽曲は、遊戯性がつよい他の楽曲とは異なり、きわめて物語的ともいえる世界観を歌っている。リフレインを引用してみよう。

プラスティックガール
あの子の揺れないスカート 愛すべきニセモノだらけ180度

 

「ミニチュア模型広げ遊んでいた 勝手すぎる街」という歌いだし、そして「揺れないスカート」、「愛すべきニセモノ」といった表現を見ればわかるように、表題の「プラスティックガール」は、おそらく、ミニチュア模型の上に置かれたプラスティック製人形のことを指す。

 つづくリフレインの

あの頃に戻れないなら 新しい嘘をついてよ おとぎ話聞かせて

という歌詞からは、ひとりの男が、人形とミニチュア模型をつかって、「撮影途中の映画みたい」に試行錯誤しながら、二度と戻ってこない青春の日々を再現しようとしている光景が読み取れるだろう。そうして主人公は、「おとぎ話」という虚構=「嘘」の世界のなかで、失われた時をふたたび取り戻そうとしているのだ。

 

だが、「あの子の揺れないスカート 愛すべきニセモノだらけ180度」と歌われるように、主人公もこの「おとぎ話」のなかに浸りきっているわけではない。

そのことはちょうど「180度」という角度に現れている。指のシャッターで「四角」に切り取られた「ハコニワの世界」は主人公を「360度」取り囲むことはありえない。それはつねに「180度」の限定された視界として、歌い手が決して入り込むことが出来ない、溶け込むことが出来ない世界を、ただひたすらに開示し続けている。
「あの頃に戻れない」という時間の隔たりは、ここでは「ミニチュア模型」に入り込むことが出来ないという空間的な距離と二重写しになっているといえるだろう。

 この歌が喚起する痛切なノスタルジーはまさにここにある。

 

 悲しくなんかないんだよ 涙は出ないくせに

でも寂しくなったら 誰かのせいにしていいかな

 

嘘やおとぎ話の力に頼っても消し去ることの出来ない孤独。埋められない距離。

このような孤独感をかりに「180度の孤独」と名付けてみたい。この孤独は、パスピエの歌詞の世界の根底にある主題とつながっている。


たとえば、「いい子だね こっち向いて、こらあっち向いちゃいけない」と歌う「ハレとケ」、「Yes/No」のスラッシュ記号、「右か左か 嘘か本当か/めまぐるしく変わる/いつの間にかウラのウラ」と歌われる「裏の裏」、そして、

 

 うしろの正面だあれ あなたはだあれ
(「トリップ」)

 

巡り会い 巡れば巡る くるりくるり隣り合わせ
偶然はわざと 運命のしわざと
いついつ出やる輪の上 うしろの正面だあれ?なんてね

振り向いてほしいんだよ 同じ笑顔で待ってる
私に気づいて

(「トキノワ」)

 

と「かごめかごめ」の童謡がモティーフになる楽曲が複数存在していることからもわかるように、パスピエの歌詞においては、ほとんどつねに、表と裏、嘘と真実、いいかえれば、180度の角度を境にして隣接しながらも背馳し合う、ふたつの世界が問題になっている。

「180度」という数字は、したがって騙し合いや擦れ違い、孤独といったテーマと結びついたきわめてパスピエ的な数字なのである。

「プラスティックガール」のばあい、主人公とプラスティック製の「キミ」を隔てる、指で作った「四角」の透明な窓が、世界を180度ずつに分割する境の役割を担っているといえるだろう。

彼はじぶんのうしろの180度=現実をけっして振り向かない。透明な窓を破って「おとぎ話」の世界に入り込みたいという願いだけが彼を突き動かす。

この歌が人の心を動かすとすれば、まさに主人公のこのかたくななまでの願いゆえだろう。

歌詞はつぎのように、閉じられる。

 

今から 迎えに行くから
キミは変わらず微笑んで

 

両義的な結末*1だ。変わることのないミニチュアと変わりゆく此岸の対比を匂わせながら、永遠に移ろうことのない青春、「おとぎ話」の世界への扉がすぐそこにあるかのように信じられているのだから。

 

 

 

 

*1:パスピエにとって180度の「おとぎ話」を、反対側180度の現実によって否定することが問題ではないことに注意しよう。この180度の孤独を脱する唯一のイメージはおそらく「円」である。「Yes/No」の「Yes/Noのメリーゴーランド」という歌詞が示すように、裏と表は補い合って、円環を形作ることで、はじめてひとつの全体になるからだ。陰陽が互いに補い合う様に、「ワールドエンド」では「裏と表 表裏一体が絶対でしょ」と歌われている

空駆ける自由は誰のものか:湯川潮音の歌詞について

初期楽曲から「かかとを鳴らそ」まで

 湯川潮音の初期楽曲を聴くと、「飛翔」というモティーフの執拗な反復ぶりに驚かされずにはいられない。

 たとえば、代表曲「渡り鳥の三つのトラッド」では「極上の羽飾りのコートをまとって」みっつの季節の面影へと吸い込まれていく「あなた」と「飛び立てる羽」を持たない「私」の離別が語られ、「海の上のパイロット」では、船とともに海に沈んでゆく「私」を置いて飛行機で空へと飛び去っていく「あなた」の姿が描かれる。

 同じアルバムに収録されている岸田繁作曲の「裸の王様」では、「鉄格子」の窓に閉じ込められた「私」によって、「日が昇るのも沈むのも目をくれないで、飛び立って行ける」「天を舞う鷹のよう」な「あなた」の「戦い」が歌われるいっぽう*1、つづくアルバム「紫陽花の庭」においては、「高らかに舞い上が」り「私よりどこまでも遠いとこへいく」ツバメの姿に対する「私」の明るい憧憬(「ツバメの唄」)が歌詞のリフレインを形作る。

 このように、湯川潮音の初期楽曲においては、自由に大空を飛ぶことは、ほとんどつねに、「私」には手の届かない男性的な美質として現れる。 若いころから海外に親しんでいた彼女にしては意外なことに、空を駆け、異国へと飛び立っていける自由を享受するのはあくまで「あなた」であり、歌い手の側は、しばしば閉所に閉じ込められ、広い空間を駆けていくことを許されないのだ*2

 この関係はそのまま歌詞の中で歌われる「恋愛」のありようと重なっている。ちょうど「さよならの扉」や「見つめてごらん」が示すように、「私」を捨てて立ち去っていく「あなた」に対して、「私」は思い人が残した「言葉」にとらわれたまま、「私さえ ここにいるように」(「キルト」)と、「待つ女」の姿勢をつらぬきつづける。彼女の歌詞にあっては「あなた」が「私」を捨てて旅立っていくことはあっても、「私」が「あなた」を拒絶し遠ざかっていく、というような光景は稀なのだ。かりにそのような離別があったとしても、「私」はつねに「あなた」がふたたび自分を訪れてくれることを心のどこかで願い続けている。

 

さよならの扉 固く鍵を回したけれど

同じ気持ちなら またノックして

ありがとうの声は 電話越しに鳴り響くチャイム

いつか聞こえると信じていたいから

 

一点に固着し、閉ざされた「私」と、広い空間へと開かれた「あなた」の自由、この対比は湯川潮音の曲の常数である。

このような、ほとんど保守的といってもいい、「私」と「あなた」の関係の上に築かれた彼女の歌詞の世界にあって、今回とりあげる「かかとを鳴らそ」はひとつの転換点を形作っているといえるだろう。

 

囚われていた鎖 解かれたら

出口のない空に身震いした

どこへ行こう

どこへでも行けてしまうから

いつまでもわたしは踏み出せないまま

 

「出口のない空」「僕は踏み出せない」という表現からは、いっけん彼女の初期作品と通底する「閉塞感」が歌われているようにみえるが、ここには見逃せない変化がある。歌い手の一人称「わたし」に対応する「あなた」が不在なのだ。これは湯川潮音の歌の世界に変更を迫るきわめて重要な細部だといわねばならない。彼女の歌の世界の多くを構築していた「あなたー私」の関係の消失。歌い手がいまや、「どこへでも行けてしまう」のはこのような人称関係の変化と切り離すことが出来ないだろう。「あなた」に従属する「私」から、自立して生きる「わたし」の単独性へ、この変化が「鉄格子の窓」のなかに歌い手を繋ぎ止めていた「鎖」を断ち切ったのだ。

 

つづく後半部はそのことをよく示している。あたかも沈み行く船と心中するような女性的な忍従から解き放たれ、「海の上のパイロット」が象徴するあの少年的な冒険をわがものとしたかのように、彼女は歌う。

 

変わり始めた空は広がり続けている

思っていた様にずっと歩こう

囚われていた鎖 解かれたら

出口のない空に身震いした

かかとを鳴らそ

どこかへ辿り着いた時

ぼろぼろに疲れて笑っていたい。

 

「出口のない空」、たしかにここでは、「空」はその途方もない広がりによってかえってひとつの「壁」のように機能してしまっている。 けれどもそれは「湯川潮音」の初期楽曲を支配していた、二者関係の、あのどうしようもない閉塞感とはあきらかに異質なものだ。それはちょうど、閉所に閉じ込められていた人間が外へ顔を出したとき、空のまばゆさに立ちすくんでしまうあの感覚そのものだろう。この途方もない自由の目眩。「あなた」に繋ぎ止められて生きる「私」とはちがって、どこへでも行ける「わたし」は空へと飛び立っていくことすらできるにちがいない。 湯川潮音は、ひるむことなく歩き始める。いま、空を駆ける自由は彼女のものだ。

 

 

*1:ここでは「蝶」というかたちで例外的に女性と飛翔とが結びつけられているが、あくまで飛び立ったさきで見つけるものは「あなたの見たもの」ではないことが強調される

*2:むしろ「HARLEM」の歌詞が示す通り、「私」にとって異国への旅は、「まるでわからぬように」話される異国の言葉を聞きながら「あなた」の「小さな箱庭」に幽閉される経験となる。

光の雨:Fairground Attraction の Moon on the rain について

試訳

地下のバーに鳴り響くジャズ、雨の日*1に月は出ている
飲み過ぎ、遣いすぎ、またすっからかんね
ああ愛しのひと、今夜はどこにいるの
思い出す、よくテムズのほとりを歩いたこと
堤防の明かりが宝石の鎖みたいだった
はじめのころあなたがいったことを忘れない。
あなたはいったの、「きみの心に光の糸を掛けてあげる」って

持っていたあなたの写真、サイン入りの写真、
ポケットにいれて長いこと経った、いまではぼろぼろ
ああ愛しのひと、今夜あなたの傍には誰がいるの
あの公園の回転遊具にでもいるのかしら
昏くなって閉園してから、柵の間から忍び込んだ。
出会った頃わたしに教えてくれた歌を彼女にも教えているのかしら
私たちの心に響いたあの歌、ベルとバンジョーが奏でるあの曲を

いまではバーは空っぽ、みんな家に帰ってしまった
たぶんこれから、ひとりであの堤防を歩いて帰る
ああ愛しのひと、あなたに会えて良かった、
良かった、ジャズの鳴り響く地下室のバーと、宝石の鎖があって。
飲み過ぎて、遣いすぎてしまったけれど、
雨の日の月が出ているのだから

 

解釈

わたしのお気に入りの曲Fairground AttractionのMoon on the rainについて解釈をすこし書き留めておきたいと思います。まず歌についての大まかなイメージを掴むため、冒頭を引用してみましょう。

Jazz in a basement bar, the moon's on the rain
Drunk too much, spent too much, penniless again
Oh, sweetheart, where are you tonight?


地下のバーに鳴り響くジャズ、雨の日に月は出ている
飲み過ぎ、遣いすぎ、またすっからかんね
ああ愛しのひと、今夜はどこにいるの


この物憂い歌いだしに端的に現れているように、「雨の日の月」が、思い出のジャズバーに足しげく通うわたしの恋の歌であることはまず疑えません。けれど、これだけでは「わたし」の性別や、「あなた」の姿など具体的なイメージまでははっきりしません。
 わたしは最初、

Drunk too much, spent too much, penniless again
飲み過ぎ、遣いすぎ、またすっからかんね


という歌詞からやさぐれた中年男性を想像していたのですが、
恋人の「あなた」が「わたし」に言う

You said,"I'll put a string of lights 'round your heart"
あなたはいったの、「きみの心に光の糸を掛けてあげる」って


という「光」の「宝石」を纏うイメージから、むしろ「わたし」は女性なのではないかと思うようになりました。

 じっさいよく歌詞を読んでみると、次のような文章に出会います。

Is she learning the song you taught me at the start?
The one the bells and the banjos played on our hearts

出会った頃わたしに教えてくれた歌を彼女にも教えているのかしら
私たちの心に響いたあの歌、ベルとバンジョーが奏でるあの曲を


ここで唐突に出てくる「she」は「彼女」と訳すほかはないのですが、さしあたり注目すべきは、かつて「わたし」が恋人の「あなた」にとって占めていた位置を「彼女」がいまは占めているということです。だとすれば、(たいへん異性愛中心主義的な解釈で申し訳ないのですが)「わたし」は「女性」だととるのがよいでしょう。


 さて、この箇所を、「持っていたあなたの写真、サイン入りの写真」というフレーズとあわせて考えてみると、わたしの恋の相手はどうやら「地下のバー」で演奏していたジャズミュージシャンのひとりではないかと推測されます。

ふたりはおそらくジャズバーで、ミュージシャンと観客、あるいは演奏家と歌い手として出会ったのでしょう。お金はないけれど、愛情だけはある。ジャズバーの帰り道、ふたりでよくテムズを歩いて、そんな幸せをかみしめていたのかもしれません。けれどもいつしか「あなた」のこころは「わたし」を離れていきます。

「あなた」は「わたし」を捨て「彼女」のもとに走った。そして場末の小さなバーからどこか遠くへ飛び立っていってしまった。


こうして最初のスタンザの意味があきらかになります。

Jazz in a basement bar, the moon's on the rain
Drunk too much, spent too much, penniless again
Oh, sweetheart, where are you tonight?
地下のバーに鳴り響くジャズ、雨の日に月は出ている
飲み過ぎ、遣いすぎ、またすっからかんね
ああ愛しのひと、今夜はどこにいるの


じぶんを捨てた「あなた」を忘れられない「わたし」はいまでもこうしてふたりの出逢いの場所、「地下のジャズバー」を訪れているのです。

「雨の日の月」はしたがって、彼女の切ない未練を歌った歌といえるでしょう。


ここからが本題です。

タイトルの「雨の日の月」、この歌では、二度このフレーズが繰り返されます。

この繰り返しには意味があります。

歌いだしのフレーズは、悲嘆にくれるわたしの未練を視覚的に表す情景描写になっているわけですが、最後を締めるmoon on the rainの効果は、それとはすこし違っています。最初否定的なニュアンスを伴っていた「雨の日の月」はここでは肯定的な感情のもとで歌われるからです。歌詞をよく見てみましょう。

Oh, sweetheart, I'm glad that we met
And that there's jazz in the basement bars and jewels on chains
'Cause I've drunk too much and spent too much
But there's moon on the rain 
ああ愛しのひと、あなたに会えて良かった
良かった、ジャズの鳴り響く地下室のバーと、宝石の鎖があって。
飲み過ぎて、遣いすぎてしまったけれど、
雨の日の月が出ているのだから

 

But there's moon on the rain、butが示すように「わたし」の感情がそれまで以上に強く込められていることが、まず確認できます。それはいかなる感情なのか。文章の前後を見てみると、この文章が、 I'm glad that...「〜して嬉しい、良かった」という主文の理由を説明する'Cause以下の文章に組み込まれていることがあきらかになるでしょう。さて'Cause以下はふたつの文章が続きます。そのうち前半部の、「飲み過ぎて遣いすぎてしまった」、というのは否定的な事柄ですから、「〜して嬉しい」(I'm glad that...)の理由になるとは考えづらい。としますと、接続詞'Causeによって提示されるわたしの「喜び」の理由はむしろbut以下にあることになる。構文としては[Because [A but B]]と捉えるということです。このbut(逆接の「しかし」)のあとには、したがって「I'm glad」という喜びの感情を説明するだけの強いポシティヴな事実の提示が期待されているといえるでしょう。その事実こそが「雨の日の月が出ている」ということなのです。

いわばここで歌い手は「わたしはあなたに出会えてよかった、だって雨の日の月が出ているのだから」と語っているわけです。

 

ではなぜ「雨の日の月」が喜びをもたらすのか。

ここではあえて、歌詩に込められた技巧からすこし穿った見方をしてみましょう。

ふつう詩の世界では行の終わりの音を一致させて、「韻」を踏みますが、「韻」が揃っている箇所のうちとくに重要な部分では、意味やイメージもなんらかのかたちで重なり合うことが多いものです。
さてbut there's moon on the rainという最後の締めくくりの行は、どの行と韻を踏んで
いるでしょうか。

歌詞をみると、最後のon the rainがAnd that there's jazz in the basement bars and jewels on chainsのon chainsと部分的ながら韻を踏んでいることがわかるはずです。

Oh, sweetheart, I'm glad that we met
And that there's jazz in the basement bars and jewels on chains
'Cause I've drunk too much and spent too much
But there's moon on the rain 

このjewels on chains、文字通りの意味なら「鎖」についた「宝石」ということですが、歌詞を振り返るといちど比喩的なモチーフとして現れていることに気づくでしょう。

I remember when we used to walk by the Thames
The lights on the embankment like jewels on chains
I'll never forget what you said at the start
You said, "I'll put a string of lights 'round your heart"
思い出す、よくテムズのほとりを歩いたこと
堤防の明かりが宝石の鎖みたいだった
はじめのころあなたがいったことを忘れない。
あなたはいったの、「きみの心に光の糸を掛けてあげる」って


ここでは堤防の明かりが糸上に連なっていることを「宝石の鎖」とよんでいます。
だとすれば、地下室のバーですっからかんになり、テムズの土手を一人とぼとぼと歩いて帰るわたしにはじっさいの「宝石の鎖」よりも、この「光の鎖」のほうがふさわしいように思えます。

 

さて、以上のことをふまえて、もういちど最初の問いに立ち返ってみましょう。この「光の鎖」jewels on chainsと「雨の日の月」moon on the rainのあいだにいったい、どんなつながりがあるのか。

ここで「雨の日の月」という風景を具体的に思い描いてみてください。小やみになって、ぽつぽつと糸を引くように降る「雨」のなかに月の光が差し込むと、まるで光の糸のようには見えないでしょうか。
「あなた」は「わたし」に言っていました。

"I'll put a string of lights 'round your
heart"

「きみの心に光の糸を掛けてあげる」

その言葉は、小やみの雨が月光の中に描く無数のきらめく糸によって、たしかに実現されたのかもしれません。

*1:in the rain「雨のなかで」という言い回しとは異なりon the rainという言い回しは辞書には見当たりません。おそらく、後述する「脚韻」の問題がonが選ばれた理由のひとつだと思われます。onは空間的ないし時間的な接触と近接を表しますが、ここでは時間的な意味として捉えました

抱擁の孤独:川本真琴の「微熱」メモ

川本真琴の「微熱」という曲が好きだ。

 

川本真琴の歌詞は、しばしば身体と身体とが触れ合う瞬間をめぐってつむがれている。たとえば「背中に耳をぴたっとつけて 抱きしめた」という歌い出しから始まって、「唇と唇 瞳と瞳と 手と手」「2コの心臓がくっついてく」というリフレインにいたる「1/2」をはじめとして、「届かない これって最高の1cm」というかたちで歌われる「愛の才能」、「チョコレイトのサラサラ銀紙」を唇にあてて接吻する「ピカピカ」、そして「fragile」にいたるまで、彼女の歌詞は「身体」と「身体」の直接的ないし間接的な接触への欲望に溢れている。
「おとこの子になりたかった」と歌う「1/2」の歌詞が示すように、このような触れることへの欲望は、フラジャイルな身体を抱えた「あたし」が抱く、「異なる身体」との「同一化」の欲望であるといえるだろう。

今回とりあげる「微熱」では、そのような「同一化」の願いの流産が「微熱」というモチーフに仮託されて表現されている。

冒頭部から歌詞をすこし辿ってみよう。

じれったい口唇噛むと 大人みたいに嘘つく
なんにもふれず 数えず 街がざわめくまで星を見てるの?

「微熱」のはじまりをつげるのは、「じれったい口唇噛むと」という「自己接触」のモチーフだが、次の行で「なんにもふれず」と歌われるように、「1/2」とは異なり、ここでは身体は他の身体にむかって「開かれる」ことなく、あくまでじぶんの中に「自閉」しているかのように思われる。

このような自閉の印象は、つづく行にさらにつよく現れることになる。

裸で広い宇宙に いつも君と浮かんでる
なにも育てず 傷つく まるでそれで1コの生き物のように

つづく「抱きしめると世界に弾かれそう」という一節が示すように、最も幸福な接触体験であるはずの抱擁すらもここではどこかよそよそしい。

では、「あたし」を世界から弾き飛ばしてしまうものとはいったいなんなのか。それこそが「微熱」である。真っ白な東京、雪の降る夜を窓辺に聴きながら、「あたし」はいう。

こぼれ落ちる 強い発熱
1000000回目の太陽 昇っても
哀しい 哀しいね とけない微熱

からまったまんまでひとりぼっちだって教えるの?

ここでは、街を覆う溶けない「雪」と、「あたし」の身体の「微熱」が重ねられている。ここからも分かる通り、この歌のテーマは「ふたつの異なった温度」だ。「君の鼓動にとけない微熱/別々の物語を今日も生きてくの?」という歌詞が示すように、触れることはお互いの「体温」の違いを意識させてしまう。「他の身体」と触れ合い、ひとつに溶け合いたいという「あたし」の願いは、それを実現するはずの接触そのものによって、無惨にも潰えるほかないだろう。「あたし」を世界から弾き出すもの、それは「あたし」の「身体」に宿る「命の温もり」そのものなのだから。

 

卒業の雪景色:YUKIの「ふがいないや」について

謎めいたリフレインの意味

ハチミツとクローバーIIの主題歌として有名になったYUKIの「ふがいないや」は、ぼくのなかで長いことその不思議な魅力を保ち続けてきた。
ふがいないやという詠嘆からつづけて放たれる「いやー、いやー」というサビの力強さに、どうもとりこになってしまったらしい。
しかし一体この「いやー、いやー」というのは何なのだろうか。
先日、歌詞カードを見て、不思議なことに気づいた。
すでにネットでは指摘していらっしゃる方もいるのだが、音で聞くだけでは「いやー、いやー」としか聞こえないそのサビの表記に、なぜか、ひらがなの「いや」と漢字の「嫌」が使い分けられているのだ。あたかも「いや」と「嫌」は別の事柄をさすかのように。

これはいったいどういうことなのか。
そこであらためて歌詞を見て気づいたのは、ひらがなの「いや」が、じつは一年を示す英語のyearのもじり(言葉遊び)なのではないかという解釈の可能性だ。
じっさい、この歌は、

秋になり また 冬になり ひとつ年をとった

 というように一年の終わりの歌である。


このような一年の終わりのイメージは歌詞のいたるところにちりばめられている。たとえば、「一人でも 大丈夫よって めくれてるわたしのストーリー」という歌詞は、暗に「日めくりカレンダー」のイメージを前提としているように思われるし、冒頭の雪景色と、「哀しくって 泣いてばかりいたら 芽が溶けてなくなった」という歌詞は新しい春の訪れを待つ冬の終わりの情景を描き出す。なにより決定的なのは、

さながら 昔からよく知る となりの あの娘のように
片方の耳たぶで聴く 卒業のカノン


という詩句が示すように、歌詞のなかの「私」は卒業を間近に控えているということだ。だからこの歌は一年間の終わり、別れの季節を前にした心情を歌っていると解釈できるだろう。
そうしてみると、一番の「遠くまで 逃げているつもりでも 終わらない君のストーリー」と二番の「消えてしまう 愛しい人も 優しい日々よ もうすぐ」という歌詞の意味もあきらかになる。卒業が引き起こす--ぽっかりとあいた穴のような--別れの悲しみにとらわれた「わたし」は、「初恋の人」にいまだ思いを打ち明けられず、「ひとりでも大丈夫よ」とうそぶき「にやにや 笑っている」ことしかできない*1。この歌詞はそんなじぶんの「ふがいなさ」に対する苛立ちを歌っているのだと読めないだろうか。
だとすれば、「ふがいないや、いや、嫌」は、じぶんの気持ちに素直に向き合うことが出来なかったこのふがいない一年に対する苛立ちをこめて、「ふがいないや、year、嫌」と解釈することができるはずだ。

歌詞はつぎのように閉じられる。

すがりながら 追いかけてみても あしげにされても

空いた穴を ふさごう ちがいないや。いや。

ふがいないや。いや。

つらいなあ。嫌。嫌。

 「嫌。嫌」の繰り返しがたとえ否定的に聞こえるとしても、伸びやかな声で歌われるこの箇所には鬱屈はない。それは卒業を前に、どんなに泥臭くとも、どんなにふがいなくとも、じぶんの気持ちに真摯に向かいあおうとする決心のように響くだろう。

 

*1:ひょっとするとこの初恋の人こそ幼なじみの「となりのあの娘」なのだろうか。「さながら(…)となりのあの娘のように」という行が後ろの「片方の耳たぶで聴く 卒業のカノン」の行にかかるのなら「あの娘」にはもうほかに恋人がいるのかもしれない。その場合、これは片思いの未練の歌だということになるのかもしれない

「窓」と「軒先」:高浜寛『蝶のみちゆき』感想ノート

高浜寛の『蝶のみちゆき』を読んだ。思えば何年か前に、異邦の地で肩の凝らずに読めるものを探していて、ふと電子書籍で出ていた『トゥー・エスプレッソ』を買ったのがこの作家とのはじめての出逢いであった。いっけんノンシャランとうつる筆遣いと物語の気負いのない運びの背後にある絶妙に計算された構成に驚かされたわたしは、以来すっかり虜になってしまったのだった。
 そのときはその卓抜なストーリーテリングの技倆、特に、起伏なく流れていく「時間」そのものをコマに定着させる力に唸らされたものだけれど、今回は明瞭な起承転結のなかに、この作家本来の構成の巧さが際立っていた。
 とくにわたしが気になったのは「窓」や「軒先」をめぐる構図の用い方だ。冒頭部(p.1-3)をひいてみよう。
 なにやら商談をしているらしきふたりの大人を室内に描きながら、カメラは軒先の庭に蝶を見つめるふたりの子供を捉えている。年長の子供は見事な模様のある服を、小さな子供はつぎはぎだらけの服を着ている。「羽の黒帯は『夏生まれ』のしるし。それがある蝶は長生きできない」と年長の子供が言う。カメラはなにかを予感させるように子供の着物の裾をとらえる。と瞬時に景が変わり、長崎の街を眼下に見つめる遊女の姿と庭に面した軒下で午睡をしているように見える男が交互に描かれる。
この最初の数カットが予感させるように、作品では、室内空間と外部に開けた軒先や窓といった対比が繰り返し描かれる。それはあたかも舞台となる長崎が、長い鎖国を続ける日本にとって、数少ない世界への「窓」口であったことを象徴するかのようである。その「窓」はどうじにまた、遊郭の「廓」と外界をつなぐ界面でもあったろう。問題は、この作品において「窓」がたんにそういった閉鎖性と開かれた外部の対比の象徴となるばかりではなく、物語の中できわめて有意義な機能を担わされている点にある。そのことをノートの形で簡単に示したいと思う。


 古今おおくの物語を駆動しているのは手持ちの情報の不均衡から来る登場人物同士の「すれ違い」であり、物語の筋立てはその解消や錯綜によって構築されているのが常である。この作品もまたその例に漏れない。登場人物と彼らが抱えた葛藤を大まかに整理すると次のようになる。

 

①健蔵。几帳(この葉)の義理の息子。彼は、この葉がなぜ病身の夫源一郎をおいて姿を晦ましたのかを知らない。身請けの金を支払わせておきながら、不治の病に倒れた父を捨てた彼女を彼は深く憎んでいる。


②源一郎。几帳(この葉)の病身の夫。脳腫瘍のため、言葉を発しはしない。妻「この葉」がなぜ行方を晦ましたのかは知る由もないようだ。症状で歪んだその表情は、彼の心の苦しみをも表しているのだろうか。


③トーン先生。オランダ人の医師。懇意にしている几帳の真意を知らず、じぶんのもとに担ぎ込まれた源一郎を几帳の兄だと勘違いしている。そこにはほかのふたりのような葛藤は見られないものの、やがて彼は真相を知ることで深く傷つくこととなる。

 

これら登場人物たちの思い違いのすべての中心に④几帳=この葉がいる。

  彼女の主人公たるゆえんだが、あらかじめ言ってしまえば、そのような擦れ違いの解消を描くのに「窓」や「軒先」といった室内から外部に開けた空間がつねに重要な役割を果たしているのである。


たとえばトーン先生の場合、源一郎に「口吸ひ」をする几帳を彼が盗み見てしまうのは「窓」を通してである。身体は許そうとしても、口づけだけは許さなかった几帳が源一郎には心からの接吻を与えるのを盗み見て、源一郎を彼女の兄だと勘違いしていたトーンは真実を知る。「几帳」ではない「この葉」をはじめて目にした彼は、なぜ彼女が医師であるじぶんに近づいたのか、その残酷な真実を知ってしまう。この重要なシーンでトーンの「思い違い」をあきらかにするのはまぎれもなく「窓」という装置である(p.106-107)。

「源一郎」の場合はどうだろうか。物語の転換部にあたるp.82の一コマ目で小さく描かれる、軒先に遊女の姿が掠めるシーンを読み返そう。 脳腫瘍で硬直した源一郎の表情が一瞬はっと生気を帯びることに注目したい。これはいったい何を意味するのか。軒先を掠めた遊女が歌っている歌は端唄「春 雨」であるが、じつはこれはp. 95で几帳が練習している歌なのだ。ということはこの遊女は「几帳」なのではないか。真偽はともかくとして、源一郎の眼前に「遊女」時代の几帳の姿を現出 させるに十分なはずだ。

そして物置での健蔵と徳さんの会話。もし源一郎に意識があるなら、その話の内容は聞こえていてもおかしくはない。おそらく、軒先にこの遊女の姿を見、そして健蔵と徳さんの会話を耳にした源一郎は、この時点で、すべての真実を悟ったのではないだろうか。

こ の「軒先の風景」にはしたがって、その後の源一郎の容態の変化の一因、見舞いにきた「この葉」をまえに彼が”あえて”寝たふりをし続けたことの理由がある ように思われる。もっともこれはひとつの仮説、解釈であることを断っておく。何人も源一郎がいつから起きていたのかを知る由はないからだ。もし仮に、源一 郎が「この葉」をまえにあえて眠った振りをしたのだとすれば、それは夫と義理の息子に「男相手の商売に戻ることを知られたく」ないあまり、ものいわず行方 を晦ました几帳=この葉に対する源一郎のせめてもの優しさなのかもしれない。

 彼の死後、几帳が眺める「窓」の外には、まるで歌舞伎の演目『蝶のみちゆき』さながらに、二羽の蝶が舞いとび、源一郎とこの葉、和解したふたりの魂があの世でひとつになることを告げている(p.121)。

 

 最後に「健蔵」の場合。彼の「この葉」との擦れ違いが真に氷解するのは後日譚、物語が終わりにさしかかってからである。真面目だった父「源一郎」と「この葉」の馴れ初めを尋ねる健蔵の目に「窓」や「軒先」が映るシーンは描かれない*1。しかし、この作品を読んだことがあれば、そのようなシーンを、健蔵のかわりに我々はすでに目にしていることに気づくはずである。

それこそがさきに引用した冒頭のシーンである。いわばここでは「思い違い」は読者に対して仕掛けられているのであり、その解消こそがこの作品の本筋なのだといえるだろう。ひょっとすると、もっとも重要な「窓」とは読者が見ているコマのことなのかもしれない。

「几帳=この葉」はこうしてつねに、窓の中、「廓」の中にいて、外から人々の視線に晒され、内から外を眺めている。だから、p.146-7で、自らを迎えにきた健蔵に対し、じぶんはのこりの一生を「廓」で過ごすつもりだと言う几帳が、窓辺に立った姿で描かれるのは、きわめて意義深いものだといえるだろう。それは彼女の生き方そのものだからだ。

「窓」によってのみ外部とつながる「廓」はここでは新しい時代から取り残された儚い「夢」の世界である。それはかつて彼女が、窓から眺める「出島」の風景を、新しい「夢」の世界と喩えたのとは対照的だ。「あんたは、あんたの新しい夢をみんなし」それは頁の窓の中に邯鄲の夢を見た読者に対するメッセージでもあるのだろうか。

物語は最後に解消されないひとつの秘密を残して終わる。それは「几帳=この葉」の思いである。すでに病に蝕まれつつあり、源一郎の待つあの世へ旅立つ覚悟をひとしれず決めている彼女の真意は健蔵には窺い知れない。

ここでは、あたかも「窓」は 思い違いを解消する交通路としてではなく、むしろ「擦れ違い」を生み出す「秘密」と「韜晦」のための装置として機能しているかのようだ。

 いずれにせよ、プロットの解消点、結節点にはつねに冒頭部で描かれていたあの「窓」と「軒先」のモチーフが現れることになる。これらの外部に開けた空間をまえに、縺れていた物語の綾は解きほぐされていく、たったひとつ「この葉」の純粋な思いだけを残して。高浜寛の繊細な語りは、なによりもまずその絵に描かれた空間構造よって支えられているのだ。

 

 

 

 
 

*1:ただし、前後のシーンからもあきらかなように遊郭の一室に座っている彼の正面は郭の外を見渡す「窓」である

冬の蛍:須藤まゆみの「蛍火」について

「蛍火」はデレマスの北条加蓮によるカヴァーを聞いて以来、大好きな曲のひとつなのだけれど、タイトルの「蛍火」という語にずっとひっかかりを覚えていた。

なるほど調べてみると、蛍火というのは俳句の季語のひとつで、蛍の光のことであるという。蛍は夏の風物詩であるからこの言葉はとうぜん夏の季語に当たる。ところが、歌詞に立ち戻ってみるとすぐに気づくように、うたわれる情景は冬の話なのだ。
冬の蛍といわれると、いったいどういうものなのかとふしぎに思わずにはいられない。

だが、これをたんに作詞者の短慮のせいにするのも、どうも釈然としない。作詞者の椎名豪さんによると、この詞を書いていたのは花火大会のころで、そもそも歌詞自体、儚げな水上花火の姿に着想を得たということだから、夏の季語を用いることは、作詞の状況だけを考慮するならそれほど不思議なことではない。それなら、なおさら歌詞の舞台を何故あえて冬に設定したのか、ということが気になってしまう。


そこで歌詞をもう一度読んでみると、どうも暖かさと冷たさの反転がこの曲のモチーフになっているのではないか。
歌詞に過剰な意味を読み込んでしまうのは、聞き手の悪癖と嗤われるかもしれないのだけれど、雑記としてここにひとつ、−−もとのゲームをプレイしたことがないので、歌詞から読み取れることだけにもとづいたごく私的な解釈だということを最初に断ったうえで−−思ったところを書き留めておく。


そもそも、冬の夜中に光る蛍火というイメージによってあらわされるのは、誰だろうか。いうまでもなく、それは「わたし」の思い人で、いまは亡き「きみ」のことである。
一般に蛍の光に付きまとう儚さのイメージが、ここで旅立っていってしまった「きみ」の姿に死の影を落としていることはうたがいえない。「蛍火」のイメージは、したがって連想の上では、第三パラグラフに出てくる「白く光る淡雪」のつめたい儚さと重なっていると読むことも出来るだろう。

けれどひとたび歌詞の流れに立ち戻ると、ここでは「淡雪」や「蛍火」はかならずしも「死」や「儚さ」を直接示しているわけではないことがわかるはずだ。「白く光る淡雪さえ とけないほどに寒い」という歌詞がしめすように、ここでは淡雪が溶けてなくなってしまう怖れのようなものはまだはっきりとは感じられない。それは過去において「わたし」がまだ「きみ」の死の予感にはとらわれていないことを示している。

そこにいるのは元気な「きみ」の姿だ。じっさい後半部と違って「きみ」の身体は、ここでは「冷たい死」よりも「命の暖かさ」に結びつけられている。前半部、この冷えきった冬の情景の中で寒さに凍える「わたし」の「かじかむ手」を暖かく包み込むのは、優しい「きみ」の手なのである。

ここにまず「冬の蛍火」という時期外れの季語が選ばれたひとつの理由を見ることが出来るかもしれない。
「きみ」は、なによりもまず、凍える夜に「わたし」を暖かく照らす「星たち」なのであり、まさに冬の荒涼とした風景の中に迷い込んだ、夏の「蛍」の光なのである。

だけれどもどうじに「きみ」の「光」は、朝には消えてしまうか弱い星の光、冬の季節にしか咲かない「淡雪」の光でもあることを忘れてはいけない。
ちょうど前半のリフレインとコントラストを作るかのように、「夜」と「朝」の景の転換を機に、「きみ」の死がつぎのように歌われる。

 

白く冷たい頬に 最後の花かざるとき


暖かかった「きみ」の手から、冷たくなった「きみ」の頬へ。前半部と後半部は、「暖かさ」と「冷たさ」の反転の構図によって構成されていることは明白だ。そして「きみ」が命の暖かみを失ってしまったいま、かじかむ手の「わたし」とそれを暖める「きみ」の関係もおなじように反転する。
みなが泣きながら別れを告げるそのとき、きみを遠くから眺め、ひとりぽつんとしている「わたし」は「海に咲くとても小さな和火」として描かれていることに注目しよう。
仮に海が「冷たさ」や「悲しみ」、和火が花火(これもまた蛍と同様、夏の風物詩)のことを指すのだとすれば、この表現がおなじ「光」のモティーフとして「(冬の)蛍火」と対応していることはいわずもがなだろう。
「きみ」=「蛍火」から「わたし」=「和火」へ。凍えていた「わたし」を暖めてくれた「蛍火」の「きみ」が、いまは「白く冷た」くなって、「和火」としての「わたし」に見守られている。「暖かさ」と「冷たさ」、ふたつの感覚を通じた、「わたし」と「きみ」の立場の反転の物語がここにはある。

さてここからはぼくの勝手な想像なのだけれど、「冬の情景」と「蛍火」という取り合わせが示すように、これは冷たいものと暖かいものがちょうど膚を触れ合うようにして結びつく歌なのだと思う。
冷たさと暖かさが結びつくとき、なにが生まれるか。この歌詞においてそれはおそらくふたつの反転だろう。

あの日凍えるわたしの「手」を握った「きみ」の手は、いまは「暖かさ」を失ってしまった。反対に「わたし」は冷たくなった思い人の頬を眺めながら、命の火を小さく燃やし続ける。

その火の温もりはきっと、いつか「わたし」のかじかむ手を握った「きみ」の体温の名残なのだろうか。